猪と朝鮮通信使(メモ)

承前*1

日本における狩猟文化、特に江戸時代における狩猟についての参考文献として、


藤田覚「イノシシ・鉄砲・朝鮮通信使」『図書』(岩波書店)747、pp.18-22、2011


を追加。
武蔵国上恩方村(現在の八王子市西部)の事例が採り上げられている。
ここでは、狩猟についてではなく「朝鮮通信使」についての記述をメモしておく。


日本側は、五〇〇人におよぶ使節一行を宿泊地や江戸で豪華な食事によりもてなした。朝鮮人は、獣肉を忌避した当時の日本人と異なり、ブタやシカ、そしてイノシシを好物としたので、ブタの代わりにイノシシやシカの肉を提供した。使節を接待する幕府や大名はイノシシやシカを領地の村々に命じて集めていた(原田信男『江戸の食生活』岩波書店)。
享保四年、八代将軍徳川吉宗の将軍就任を祝うために来日した朝鮮通信使の食事のため、上恩方村から二三疋のイノシシ(古文書には「猪鹿」と書かれている)が江戸に送られている。幕府の命令を受けた上恩方村では、おそらく村民総出で鉄砲を使ってイノシシを仕留めたのだろう。代官からは、1疋につき二分二朱を支給するといわれ、まず金二両が渡されている。なおイノシシは、首を落とし、内臓を取り除いて江戸に送られたらしい。
江戸城使節の宿所となった浅草の本願寺で行われる正式な饗応の料理は、日本料理だったので獣肉は出なかった。道中の宿泊地では、朝鮮料理も出され、イノシシやシカが供されている。(pp.21-22)
疑問だが、江戸時代において「朝鮮料理」の技術(レシピ等)はどのように伝承されていたのか。朝鮮通信使が来るのは数十年に1回だし、朝鮮料理が日常的に食されていたわけではないだろう。「享保四年の朝鮮通信使来日のさいには、一〇月九日に、対馬藩宗家の江戸藩邸で朝鮮料理による饗応が行われた」(p.22)。まあ対馬藩は朝鮮との関係が例外的に深かったわけだけど。