「未来」はない

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100709/1278643022に長文のコメントをいただく*1。まあこういうのはコメントというかたちを取るよりも自らの独立したエントリーというかたちで発表なさった方がよいのではないかとは思うけれど。さて曰く、


英米人は、「我々は、どこから来たか」「我々は、何者であるか」「我々は、どこに行くか」といった考え方をする。
我々日本人にしてみれば、奇妙な考え方であるが、彼らにしてみれば当然の考え方になる。
それは、英語には時制というものがあって、構文は、過去時制、現在時制、未来時制に分かれているからである。
3時制の構文は考えの枠組みのようなものとなっていて、その内容は白紙の状態にある。
その穴埋め作業に相当するものが、思索の過程である。

ところが、日本語には時制というものがない。
時制のない脳裏には、刹那は永遠のように見えている。
だから、構文の内容は、「今、ここ」オンリーになる。新天地に移住する意思はない。
思索の過程がなく能天気であるので、未来には筋道がなく不安ばかりが存在する。
TPPの内容に、行き着く先の理想と希望がないので改革の力が出せない。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100709/1278643022#c1297500162

ところで、中国語では例えば、


你哪裡来的?(Where do you come from?)


という言い方を普通にするけれど、中国語は「時制」がないことで悪名高い言語でもあるのだ。それから、日本語の「た」も「過去」という事態の(少なくとも)或る側面を表現しえていることはフランス・ドルヌ+小林康夫『日本語の森を歩いて』をご参照ください*2。また、日本語に「未来時制」がないというなら、英語にも「未来時制」なんてないですよ。少なくとも仏蘭西語に「未来時制」があるというのと同等な意味においては。仏蘭西語話者から見れば、英語には「未来時制」などなく、英語話者は義務(shall)とか意志(will)とか成り行き(be going to)を表す語彙を使って「未来」を表現しているつもりになっているだけだということになります。日本語話者が不確定的判断を表す〈だろう〉を使っているように。

日本語の森を歩いて (講談社現代新書)

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