片仮名言葉

http://d.hatena.ne.jp/next49/20130306/p2


カタカナ語を公文書からできる限りなくす」べきだという。それは、非ネイティヴの日本語話者が増えることに鑑み、「外来語をカタカナで表現するのがなんとなく分かるのは日本語ネイティブ話者だけであ」り、「外国語として日本語を学んだ人に聞こえる外来語の元の発音は日本語ネイティブ話者とは違って聞こえている」ためである。この方は、以前にも海部美知さんの「日本語リストラ」提案*1に反応しつつ、同様の理由から「カタカナ外来語」をやめることを提案している*2
私としては、非ネイティヴに配慮して、日本語を改変しなくてもいい、さらに言えばそのような理由で改変すべきではないと思っている。しかし、(「公文書」などにおいては)「明治のように頑張って和訳すべき」だとは思う。それは非ネイティヴのためではない。日本語ネイティヴ側の思考停止を防ぐためだ。翻訳が単語と単語の機械的な置換以上のことを意味する以上、そこには思考ということが含まれている筈なのだ。というか、単語の機械的な置換で済むようであれば、「カタカナ外来語」のままにしておく必要もないのだ。勿論「頑張って和訳」するためには、馬鹿げた漢字制限はやめなければならない。「明治」の頃に「頑張って和訳」できたのは、日本語(日本人)の側に漢文的教養の蓄積という資源があったことが大きいけど(Cf. eg. 由良君美『言語文化のフロンティア』)、現在ではそのような〈資源〉が(高学歴な人たちにおいても)だいぶ枯渇しているということは明らかだろう。また例えば

範疇


が駄目で、


範ちゅう


と書くことを強制されるというようなことがあれば、誰だって(それよりは)


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と書くのを選ぶのではないか。

言語文化のフロンティア (講談社学術文庫)

言語文化のフロンティア (講談社学術文庫)

さて、冒頭に掲げたエントリーには、石川県議会で「「知事議案説明要旨」や、当初予算案などの「主要施策の概要」」に「カタカナ英語」が多いという批判があったという『読売新聞』の記事が引用されている*3。それに対して、石川県知事は答弁の中で、「グローバル化がどんどん広がり、外国から入ってくる言葉もあり、的確に日本語で表現できないものも中にはある」と「カタカナ英語」を正当化している。たしかにそうだねと思いながら、批判されている実例を見ると、「エクスカーション」、「ハイレベルセッション」、「デスティネーション・キャンペーン」、「シェイクアウト石川」だよ。これはたんに、若い頃に雑誌『ポパイ』とかを読んでいた世代が政策立案者の立場になっているということだけなのではないかと思った。批判者の側の「英語を使った言葉遊びで政策を目新しいものに見せ、さも革新的なものであるようなふりをするのはやめるべきだ」という主張もどうかと思う。今更「カタカナ英語」を使ったからといって、別にそれが「目新しいもの」なんかに見えないもの。今から20年前や30年前だって、英語だとどうしてもチープな感じが出てしまうので高級感を出すために仏蘭西語を使うというようなことを行っていたわけだ。旅行情報誌に『じゃらんじゃらん』というマレー語を使ったリクルートのセンスは、「目新しい」ということでは、けっこういい線を行っていたということになる。福建語やチベット語スワヒリ語ならともかく、英語では「政策を目新しいものに見せ、さも革新的なものであるようなふりをする」ことはできないよ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20091031/1257023368 Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091102/1257136010

*2:http://d.hatena.ne.jp/next49/20091102/p1

*3:http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130306-OYT1T00025.htm 因みに、この中で「乱用」という言葉が使われているのだが、これなどもちゃんと濫用と書け! とか言いたくなってしまう。