「同化」すればするほど(メモ)

承前*1

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

かなり時間が空いてしまったが、阿部純一郎「市民権の空洞化と〈同化〉論争――国民の境界をめぐるダイナミクス――」(『コロキウム』2、pp.144-162、2006)の続き。第4節「同化への封じ込め」から。
「移民はホスト社会から距離をとりすぎてもいけないが、逆にあまり参加しすぎてもいけないという逆説」(p.156)、或いは「移民現象というカテゴリーによって指示される住民が現実に「移民的」であることが少なければ少ないほど、つまり身分や社会的機能においてだけでなく、慣習や文化の点で外国人であることが少なければ少ないほど、彼らはより一層外国人集団として名指しされるのである」(Etienne Balibar、pp.156-157)という逆説。それについて曰く、


どうして上記のようなスティグマ化が作動するのか。この逆説は、単なる文化的な距離の問題、単なる類型化やステレオ・タイプ化の問題では説明できない。というのも、それは与えられた配置を侵犯する者に対するスティグマ化、いわば「カテゴリー・ミステイク」の論理を駆使しているからである。つまり、それは文化資本の蓄積動態と、統治的/受動的帰属という境界線が交差するなかで引き起こされる現象にほかならない。本来「受動的」な位置に入るべき者が、いまやナショナルな空間を「統治」する位置へ滑り込んでいる。このテーマは、現代の移民論争にしばしば見られる言説になりつつある。「ネイションには道具的には(technically)しっかりと参加しているがネイションを『気にかけている(care for)』とは言えない人々が、ネイションを気にかけているのだがネイションに道具的には参加できない人々を犠牲にして、ネイションを統制している」(Hage[2003:2])。すなわち、「逆差別」のテーマである。(p.157)
「自己の統治的帰属と他者の受動的帰属がいつまでも覆されないという「安心」のある状況では、ナショナリズムへの動機は生まれてこない」。ナショナリズムを動機づけるものとしての「ナショナルな空間で理想とされる自己と他者のポジショニングがいまや逆転しつつあるという「不安」」(ibid.)。さらに、「移民が入り込んでくる「前」に、同質的で、連続した、安定ある「国民=国家」がすでに存在していたのではなく、同化されない移民を選別するなかで、いやもっと言えばその「後」で、理想的なナショナルな空間――ここで自分は管理者の位置で安心して暮らしていた――が「かつて」存在したという想像力が与えられる」(p.158)。
Hageは「貴族制」という概念を導入する。それは、「ある人物が能動的な蓄積によってどんなに資本を獲得しても、獲得された資本が蓄積であるというまさにその事実によって、資本を蓄積する必要なしに継承したり、あるいは先天的に志保を保持しているとされる人々に比べて、その資本価値は低い、という信念をはぐくむ」。「貴族制的論理は、本質を資本蓄積のための市場で自由に入手できないような資本として設定するのだ」(何れもHage[1998]から。P.158に引用)。「ナショナルな空間での管理者の位置を自然化するために、その位置を占めるために必要な文化資本(それは目下のところ管理者の立場にいる者に独占されている資本だろう)が新たに選別されて、理想的な国民的価値の中心へと押しあげられるのである」(p.159)。(そうした操作を通じて)「「同化されない移民」を新たに選別し続けること、それは自分たちがナショナルな空間である点を保証する、すなわち「国民=国家」という理想的な空間を想像させ続ける重要なメカニズムである」(ibid.)。


なお、ナショナリズム文化資本については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080722/1216690565http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081127/1227807914も。