8か9か

池田香代子「「若者がチマチマしている」」http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51479783.html(Via http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20101003/1286096664


池田さんのエントリーについては先月も言及したけれど*1
冒頭では小田嶋隆の文章*2を引いて、最近の若者が萎縮していることが語られている。
誰でも昔のことを忘れるということ、或いは或る出来事と他の出来事が混同されること、また出来事同士の前後関係がひっくり返ってしまうということはある。でも、池田さんの記憶の構造というのはちょっと凄い。


1985年、労働者派遣法が成立し、正規に就職しないで腰かけ的な仕事でつなぎながら、自分のやりたいことを追いかけることが、若い人びとの間でひとつの選択肢になりました。世の中は、そんな生き方をもてはやすような雰囲気でした。「自分探し」が流行語になり、私のところにもそんなテーマのエッセイ依頼がたくさん来ました。この年に訳出した『ソフィーの世界』という、ヨーロッパ哲学史をファンタジー形式で語るという本がベストセラーになったからです。なにしろその出だしは、「あなたはだれ?」だったのです。それで、哲学的な思考とは何かを説くこの作品とはおよそ無関係だったにも拘わらず、当時の風潮に押されて、私などのところにまで「自分探し」エッセイの注文が殺到したのでした。

当時、私はいやな感じが拭いきれませんでした。ましてや、自分が訳した本がそのいやな感じを助長しているのかもしれないと思うと、いやな感じは耐え難いほどでした。バイトで自分探しという発想が、若者をおだてる裏でとても恐ろしい罠を仕組んでいるような気がしたのです。アルバイトでつなぎながら将来のために努力する若者は、いつの世にもいました。ミュージシャンをめざして、司法試験合格をめざして。けれど、85年からは、そうした少数派の道に、多数の若者がおびき入れられたのではないでしょうか。まるで、笛の音に誘われて町から連れ出されたハーメルンの子どもたちのように。そして、気がついた時にはその状態が十年以上も続いて、さして特別のスキルを持たない、あいかわらず時間を切り売りするしかないおびただしい30代、40代を生み出して今に至っているのではないでしょうか。ほくそ笑んでいるのは、必要な時だけ調達できる安い労働力のぶ厚い層をあたえられた雇用側ではないでしょうか。

私は85年ごろに書いた「自分探し」エッセイに、必ずそうした懸念をしのばせ、さらには編集者の意図をひそかに裏切って、『ソフィーの世界』が本来伝えたかったことに注目していただこうとしました。その1篇は今、2種類の高校の現代国語の教科書に載っています。教科書に自分の文章が載るなんて、「作者の気持ちは?」などというテストの愚問にさんざん悩まされたひとりとして、おおいに迷いました。けれど、文章がずたずたにされ、私が思いも寄らなかった扱いをされてもいいから、「自分探し」を奨励する社会への警鐘が、ひとりでも多くの若者に届けばいいと考えて、採択を(今流行の言葉で言うと)了としたのでした。

ゴルデルの『ソフィーの世界』っていうのは池田さんがいわば翻訳家としてブレイクした作品でもあり、その作品が刊行された年を間違えてしまうというのが凄い! 1995年が1985年になっている。「労働者派遣法」が出てくるので、そのために間違えたのかと思ったのだけれど、「労働者派遣法」の施行は1986年。1年ずれているけれど、まあそういうズレというのはよくあることか。因みに、1999年の改正により一般事務職の「派遣」が解禁され、2004年の改正によって製造業への「派遣」が解禁された。「派遣」が社会問題化した背景は基本的に1999年と2004年の大幅な規制緩和である。また、『ソフィーの世界』が出た1995年には「派遣」関係で目立った動きはなかったのではないか。1995年の段階では、「派遣」は翻訳やIT技術或いは秘書といった専門職に限定されていたので、専門的スキルがない「自分探し」の若者が派遣労働者になるということはできなかった。それにしても、10年だよ。1年か2年ならともかく、記憶が10年ずれるということってふつうあるのかな。俺は1985年にはまだワープロさえも使っていなかったけれど、1995年にはインターネットを使っていた。テン・イヤーズ・アフターというバンドがあったけれど、10年の間には世の中も動くし、プライヴェートな生活でも色々とあったと思うのだ。例えば、1985年には蘇聯という国家が存在していたが、1995年には存在していない。それから、1995年という年は阪神大震災オウム真理教地下鉄サリン事件があった年で、この2つの出来事のために、ほかの年と混同するのが難しくなっているとも思うのだ。
ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

ソフィーの世界』というのは自明性の揺らぎとその危機の克服の物語という意味では正統的な青春小説といえるだろう。ところで、「ソフィー」というと、ついソフィ・マルソーを連想してしまうし、『ソフィーの世界』と『ソフィーの選択』を混同したことがあるというのは俺だけではない筈。
「自分探し」の社会史(或いは思想史)というのはきちんと考察しなければならないのだが、俺の記憶によれば、その頃(1990年代中頃)、「自分」というのは(例えば)アダルト・チルドレンといったネガティヴな契機から関心の対象になっていたということもあったと思う。