「ゆとり」?

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080612/1213272459


秋葉原殺人事件*2を巡って、「ゆとり教育」「擁護」論。曰く、


  酒鬼薔薇、ネオ麦茶、金川真大は僕と同じ1983年生まれ。ゆとり教育の直前です。ちょうど、ゆとり教育だったら事件は起こらなかったという意見がありましたが、宮台さんの言う「学校化」が徹底し、「勉強すればなんとかなる」「未来はよくなる」「努力すれば報われる」と思い込んだ親や教師にせきたてられ、しかし、それで青春を失って苦痛を耐えて勉強したのに、報いはほとんどない、学んだことをまったく生かせない単純労働に就業する、というのを味わった世代だと思います。つまり、相当な苦痛を我慢することを強いられたのに、それがまったく役に立たなかったというのを味わっているのですね。大学進学率が上がっているので、親世代より勉強をしている。下の世代のゆとりよりも勉強している。しかし就職氷河期なので報いはない。自分たちより努力してない人が得をしていて、努力を強いられて青春を台無しにしたのが「だまされた」としか言いようのない世代なんですね。

   加藤もまた厳しくしつけられ(これは虐待だと思うんですけど)、恋人とまで別れさせられたという話だ。その報いが彼には何だったのだろうか。中学から急に暗くなったと言うが、それは過剰に勉強させられたことによる生の意味の喪失、快楽の喪失、あるいは過労による鬱病なども原因ではなかったか。

先ず大まかに言って、受験を中心とした教育のプレッシャーが若い衆の人格を歪ませるという議論は、戦後、遅くとも団塊の世代辺りからずっとされてきたといえる。その妥当性は問わないが。それを背景にして、高石友也も「恋しちゃいけない受験生」と歌っていたわけだ。〈詰め込み教育〉が問題だというのは左右を問わずコンセンサスだったと言ってもいいんじゃないか。それを背景にして、学校カリキュラムの「ゆとり」化というのは1970年代から進められていた筈だし、1990年代の所謂「ゆとり教育」というのはその終着点にすぎないともいえる。だから、団塊の世代からしても、また私たち〈浩宮世代〉からしても、「1983年生まれ」の人たちはお前ら「ゆとり」ありすぎということになると思う。また、高校にしても大学にしても、(定員を含む)数は大幅に増えているので、受験のプレッシャーも(客観的には)団塊の世代とかに比べれば、相対的に緩くなっている筈なのだ。
それよりも、fujitaさんの論の中心は、ずっと「勉強」を煽られてきたのに、学校を出たら「就職氷河期」だったので、投資のリターンが少なすぎるじゃねぇかということかもしれない。しかし、それは(これも前の世代からなのだろうけど)教育において〈実学〉が煽られすぎたことの方が大きいのだと思う。主観的なリターンをバブル的に煽られれば、その分、主観的な損は大きくなる。また、「ゆとり」がないと感じたのは、出席を律儀に取るとかいった学生の〈生徒化〉と関係あるかもしれない。
ゆとり教育」そのものについては幾分両義的な考えを持っている。まあ、〈生きる力〉とかいった「ポジティブ教」的な理念が気に食わないということはある。たしかに「せめてゆとり教育にしてもらい、楽しくまったりと青春を過ごしていれば、ここまで追い詰められることもなく、コミュニケーション能力も上がり、性的な疎外感も強くならなくて済んだのではないか」といえるかも知れない。また、長期に亙る教育の「ゆとり」化の中で、クリエイティヴな思考をする人、面白いことをする人というのも(前の世代以上に)育っていっただろう。しかし、その一方で、それは本人が使用可能な文化資本に大きく左右されるのだと思う。勿論、それはいつの時代でも変わらないわけだが、上からの画一的な詰め込みが少なくなれば、私たちの知的・感性的形成に自分が使用可能な文化資本が影響する割合は増える。そうすると、不幸にして文化資本を持たない人は、碌に知識も詰め込んでもらえないで、そのまま社会に放り出されてどうなるのよということになる。だから、「ゆとり教育」は社会的弱者の切り捨てであり、貧困を(知的なレヴェルでも)再生産するものだという左翼的な批判にも一定の納得をする。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080610/1213032908 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080613/1213338134 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080618/1213768852

*2:加藤の乱」という言葉が登場しているようだ。加藤紘一を思い出してしまいましたよ。「乱」の濫用? せいぜいあれは〈変〉でしょう(そこまで行くか)。桜田門外の変とか。