サッカーと憲法九条と「だって」

目白雑録 2 (朝日文庫)

目白雑録 2 (朝日文庫)

金井美恵子『目白雑録2』*1から。


ほとんどのサッカー選手とサッカー・ファンにとっては、ワールド・カップは、クラブにし所属している各国の選手が、戻ったり出ていったりして、とりあえず国単位で新たに組まれるメンバー同士の試合を楽しむというものなのだが、もちろん、実際は違っている。
「もしこれでロシアが惨敗し、われわれが大勝すればだね。要するに、四島の交渉ってちょっと形が違ってくるのよ。まさかと言うけど。そういうもんだよ。オレは外交専門だから。そのためにやっぱり勝ってもらわないと困る」(ファン・ソンビンの文中*2からの石原慎太郎の発言)。「国民がこんなにひとつに燃えたのは久しぶりではないだろうか。〔……〕とかくスポーツの世界を美化、理想化してきた日本人にとってW杯は初の“平時の戦争体験”といっていい。〔……〕W杯では、ひとつのプレー、ひとつの頂点、ひとつの勝利などピッチで展開されるすべての結果が国家の利害に直結するといっても言い過ぎではない」(ファン・ソンビンの文中から、「産経新聞社説」’02年六月十一日)
だって、と言いたい。ワールド・カップでこれなのだから、これが本当の“戦争”だったら、彼等はどんなことを喚きたてる? 不快な喚き声から耳や眼の衛生を守るためにも第九条は守らなければならない。(「だって、……」、p.247)
2002年のワールド・カップの時に『産経』の社説がここまで舞い上がっていたということは知らなかった。
「だって」について。

では、右翼・民族派の雑誌・新聞は売れ、運動が盛んになっているかというと、逆なのだ。雑誌・新聞は売れないし、運動も伸びていない。だって、一般の人々の方が(右翼・民族派を乗り越えて)もっと過激になっているからだ。また、本屋に出ている「諸君!」や「正論」の方が右翼・民族派よりも過激だからだ。
という鈴木邦男の文章(「愛国者はそんなに偉いのか」『論座』2006年3月号)を引用しつつ、曰く、

文中に「だって」という、昔の、極度にというほどではなく普通の父権的家庭であれば子供が親に使うと、言い訳するな、と、先取り的というか条件反射のパブロフの犬のように親が叱り付けることになっていた、子供っぽい舌たらずの言葉を多用する’43年生れの鈴木邦男なのだが、それはそれとして、ここに引用した文章は正しい。だって、ほんとうにそうなんだもん、なのだけれど、しかし、たとえば、『諸君!』四月号、「永久保存版〈歴史講座〉小泉首相以下全国民必読! もし韓国・北朝鮮にああ言われたら――こう言い返せ」の言われた項目と言い返す人(25人のリスト中知ってるのは倉田真由美だけである。多分、彼女が「ヨン様ドラマに日本人は感動した」と言われたら、言い返す人なのだろう)が掲載されている広告を見ると、これに「過激」という言葉が当てはまらないと思う。だって、過激というより、幼稚なんだもん。(pp.239-240)
やっぱり「だって」は「なんだもん」とセットで使用すべし。

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100916/1284660360

*2:黄盛彬「W杯と日本の自画像、そして韓国という他者」in 有元健・小笠原博毅編『サッカーの詩学政治学人文書院