「地図」(par Deleuze)

気狂いピエロ [DVD]

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恋物語

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以前にも書いたように、ジル・ドゥルーズの「逃走線」という概念の起源がゴダールの『気狂いピエロ』、その中でジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナがデュエットする「私の運命線」という歌にあるということを長らく信じていた*1。勿論専門家からは一笑に付されてしまったけれど。しかし、ドゥルーズ本人が次のように言っているのを読むと、やはり信じたくもなる。だって、だって、ドゥルーズがこう言ってるんだもん。


私たちが「地図」とか「ダイアグラム」と呼んでいるのは、同時的に機能する多様な線の集合のことです(だから手相の線もひとつの地図になるわけです)。じっさい、じつにさまざまなタイプの線があるわけで、しかもそれを芸術にも、ひとつの社会のなかにも、ひとりの人間のなかにも見出すことができる。何かを(具体的に)表象する線もあるし、抽象的な線もある。セグメントをもつ線もあれば、セグメントをもたない線もある。大きさをあらわす線もあるし、方向を示す線もある。また、抽象的であってもそうでなくてもいいのですが、輪郭をつくる線もあれば、輪郭をつくらない線もある。そういう線は美しい。私たちは、線とは事物と〈事件〉の構成要素であると考えています。だから、どんな事物にも固有の地理があり、固有の地図学があり、ダイアグラムがあるのです。ひとりの人間の場合でも、面白いのはその人間を構成する線だし、その人間によって構成され、借用され、創造された線なのです。では、平面や立体ではなく線を特権視するのはなぜか。じつをいうと、線にはいかなる特権もないのです。空間が多様な線と相関関係に置かれたり、線が空間と相関関係に置かれたりするだけなのですから(ここでも科学の概念を介入させることができるでしょう。たとえばマンデルブロートの「フラクタル」がそうです)。要するに、なんらかのタイプの線がなんらかのタイプの空間的で立体的な形成体を包みこむのです。(「『千のプラトー』を語る」in 『記号と事件』(宮林寛訳)、pp.72-73)
記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

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