コスモポリタンな〈罪〉?

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20101003/1286088730服部良一の戦争協力問題がちょこっと言及されている。
榎本泰子『上海』から、服部良一の上海における日本軍の「文化工作」へのコミットについて少し引用する;


中国人市民は長い戦争に倦み疲れ、日々の憂さを吹き飛ばしてくれるような「明星」を求めていた。そこで日本側は、人々に広く愛された李香蘭の歌声を惜しみなく披露しようと、大音楽会「夜来香ラプソディー」を企画した。彼女のヒット曲「夜来香」を、日本から来た服部良一(一九〇三〜九三)がシンフォニック・ジャズにアレンジし、上海交響楽団をバックに歌わせたのである。一九四五年六月、最高級映画館グランドシアターで開かれた音楽会は連日超満員となり、熱狂した中国人聴衆が、曲中の李香蘭のセリフに誘われ、舞台の上に上がってくるほどだった。
戦時中とは思えない華やかな舞台が実現したのは、軍部にも理解者がいたからだった。たとえば陸軍報道部文化担当の中川牧三(一九〇二〜二〇〇八)である。中川は戦前にドイツ、イタリア、アメリカに留学して指揮や声楽を学び、風采もよく、外国語や社交界のマナーも身に付けた異色の軍人として知られた。彼は昼間は軍服姿でも、夕方になると背広に着替え、颯爽と夜の街へ出て行った。上海という都市において、武力や強権が何より嫌われ、「文化工作」の妨げになることを痛感していた中川は、報道班員たちにも、肩書きを捨て、「一人の芸術家として」中国人や外国人と付き合うように勧めていたという(山口淑子藤原作弥李香蘭・私の半生』)。
映画界の川喜多長政だけでなく、文化活動の最先端に立つほとんどの日本人は、国策を背負ってというよりは、上海の「自由」を継承するために、あるいは内地では生かされることのない自己の才能を発露するために、それぞれ働いた。ジャズを愛する作曲家服部良一も、古典バレエを愛する舞踊家小牧正英もそうであった。しかし戦局の悪化や、物資・活動資金の欠乏といった状況のもとで、芸術家個人の思いは無惨につぶされていく。(pp.188-190)
上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

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李香蘭 私の半生 (新潮文庫)

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多分古関裕而*1なんかは、日本人の内輪的盛り上がりを煽ることには寄与したかも知れないけれど、敵軍である米軍に対して、或いは日本軍が占領した上海やマニラやジャカルタではクソの役にも立たなかっただろう。それに対して、服部良一の方は進歩的でコスモポリタンでスタイリッシュであったために、逆に占領地における「文化工作」に大いに役立ってしまったという逆説。
なお、日本の歌謡曲における「服部良一」的なものと「古賀政男」的なものの対立の存在については、姜信子『日韓音楽ノート』を参照のこと*2。また、李香蘭については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090223/1235360109http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100905/1283685653も。
日韓音楽ノート―「越境」する旅人の歌を追って (岩波新書)

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