日本におけるカント(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100703/1278181982に対する補足。

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

鈴木直『輸入学問の功罪』から。


(前略)戦前戦後を通じて日本で受容されたカントは圧倒的に、意志の自由と人格的自立を求める『実践理性批判』のカントだ。『啓蒙とは何か』や『永遠平和のために』のカント、市民社会における自由権の擁護や法の支配を訴えるカントはきわめて影が薄い。
一八世紀末にすでに、カントは「地球上の諸民族の間にいったんあまねく行きわたった(広狭さまざまな)共同体は、地上の一つの場所で生じた法の侵害がすべての場所で感じ取られるまで発展を遂げた」(宇都宮芳明訳『永遠平和のために』岩波文庫)と書いている。カントのいう地球は西半球にすぎなかったかもしれないが、ともかく人類がそのような段階に達したからには、世界市民法の理念が公的な人類法一般のために必要となることをカントは見抜いていた。その目標に向かう歴史の歩みは、自然法則ではもちろんないが、また個人の自由意志に基づく道徳法則でもない。にもかかわらず、それはあたかも自然の意図であるかのように説明しうるとカントは論じた。カントといえば自然法則と道徳法則の二元論ばかりが言われるが、社会法則や歴史法則への視点も十分に備えていた。しかしこの面は、残念ながら日本の教養主義にはあまり受容されなかった。(p.149)
啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

永遠平和のために (岩波文庫)

永遠平和のために (岩波文庫)

なお、『輸入学問の功罪』では中曽根康弘渡邉恒雄の「教養主義」的なカント体験についての言及あり(pp.159-161)。