ロココ/新古典主義(メモ)

ロココへの道―西洋生活文化史点描

ロココへの道―西洋生活文化史点描

飯塚信雄『ロココへの道 西洋生活文化史点描』(文化出版局1984)の「はしがき」に曰く、


ヨーロッパの生活文化の流れを見るにあたって私が特に留意したのは、まず第一にヨーロッパ文化に内在するイスラム的要素の重視ということだった。八世紀に開花したスペインのイスラム文化から、一八三〇年代になっても北海に進出して先進諸国を悩ませていたモロッコ海賊に至るまで、イスラムはヨーロッパ社会と深いかかわりを持ってきている。十八世紀のフランスを中心として花開いたロココというヨーロッパ文化の複合体は、東洋をも含めた世界諸文化の影響下に、スペイン・アラブの遺産を受けついだイギリス、ネーデルランドを経由するもうひとつの道のゴールでもあったのである。表題の「ロココへの道」はこのもうひとつの道を意味している。(後略)(p.1)
第9章「ロココから新古典主義へ」から;

ロココ新古典主義という互いに相反する原理をさまざまな面から対比してみると、次のようになる。
ロココ……宮廷的、曲線志向、装飾過剰、遊び、不道徳、浪費、形式美、理性による感情の抑制、女性尊重
新古典主義……市民的、直線志向、装飾否定、機能性尊重、質実勤勉、貯蓄、内面的真実・写実性、感情の感傷的表現、男性中心
このように、遊びに対する機能性尊重、不道徳に対する質実勤勉、浪費に対する貯蓄、表面的形式に対する内面的真実および写実性の尊重――と両者を比較してゆけば、十九世紀以来の伝統社会に生きる私たち現代人は、ほとんど文句なしに新古典主義の立場に軍配をあげ、ロココから新古典主義への転換を人間性と社会理念の進歩として、評価することだろう。事実、新古典主義のこうした価値規準は十九世紀西欧社会の絶対的規範として定着し、すでに私たち二十世紀人の血肉の一部と化してしまっているのである。
(略)
ロココという総合文化の復権が本格的にとなえられだしたのは、やっと、第二次世界大戦が終わった一九四五年以降のことにすぎない。たとえば、フラゴナールに一年おくれて生まれ、ドイツ・ロココ文学の代表選手になったクリストフ・マルティン・ヴィーラント(一七三三〜一八一三年)などは、本年(一九八三年)がその生誕二百五十年にあたるというのに、日本ではまだほとんど正当な評価を受けるに至っていない。それだけわが国は西欧十九世紀の価値基準を絶対化し、いまだに盲目的追従をつづけているわけである。
(略)
ヴィーラントによって代表されるロココ人は、まず人間の大きさに見合った文化を望み、そのために官能性の解放を含めた人間の精神的自由を求め、人間の持つ弱点に加えて小さなもの・弱いものにも相応の場所を与えようとした。勤勉第一主義ではなく、遊びを生活の大切な要素と考え、自然との共存をはかろうとした。ロココ人は超人志向もしないし、道徳的人間像のかげで官能性や快楽志向を圧殺しようともしなかった。理性を重んじはしたが、理性至上論には懐疑のまなざしを向けることも忘れなかった。
これに対して、新古典主義が絶対の基準とした”道徳的”な十九世紀西欧市民社会はどうであったか。美的浪費の代わりに貯蓄にはげみ、得た利益を拡大再生産に投入して成功した立身出世主義者たちは、弱者を軽蔑して金権を至上のものとしたし、男子専制社会は道徳を女性に対してのみ強制する反面で、男の官能性だけはこっそり満足させるような偽善性を正当化させていた。植民地の搾取と中央権力による地方文化の切り捨ては、国家の利益という美名のもとに公然と認められ、経済開発に名を借りた自然破壊は二十世紀後半には極限に達している。遊ぶことを悪と断じる能率主義は、多くの心身症患者とレジャーの楽しみ方を知らない文化的野蛮人を生みつつある。ひと言でいえば、フランス大革命以後の物質生活の拡大は、おそろしいまでに精神の貧困化をまねき、人間を矮小化してしまったのだ。
しかし、ヨーロッパではルイ十六世の混合様式のあと、ロココが死滅してしまったわけでは決してない。ロココはさまざまなに姿を変えながら、フランス大革命以後も新古典主義優位のヨーロッパ社会の中にひっそりと息づいてきた。十九世紀ヨーロッパに猛威をふるった官僚制中央集権と国家主義は、二十世紀後半の今日もそのひずみを大きく露呈しているが、それと地方分権や文化の地方性の尊重はなんとかバランスを保ってきている。こうしたバランスが著しくくずれた形でヨーロッパ文化を意図的にうけ入れた”先進国”のひとつが、残念ながら明治維新以後の日本だった、というわけである。(pp.178-181)
さて、この本には「故 鈴木武樹に」という献辞がある。また「付章」として収録された「感覚的ヨーロッパ像の形成」は鈴木武樹*1への書簡というスタイルが採られている。