近代・共同体・物語(メモ)

見えない物語―〈騙り〉と消費

見えない物語―〈騙り〉と消費

大塚英志『見えない物語 〈騙り〉と消費』*1からの抜き書き。少し長いが。

ところが近代社会は国家という極めて大きな単位の共同体の中に半ば強引にムラ社会を吸収していこうとしたため、ムラで伝承される〈物語〉は伝説など一部が天皇家をめぐる大きな物語に統合されていったのを除けばその多くがムラ社会が解体していく中でそれが伝承される磁場を失ないいわばムラから解放される。具体的なムラ社会と一体化していた〈物語〉がそこから自由になりそれが複製や流通と結びつきことさら共同体という場の中で解釈される必要のない、一編の独り立ちしたソフトとして流通することが可能となる。(略)
最終的には天皇家を頂点とする〈大きな物語〉の枠組みの中にあったとはいえ、一方ではムラから解放された〈物語〉は相対的に自由度を増し、同時にムラの物語から解放された人々は商品として流通する〈物語ソフト〉の消費者となっていく。さらには敗戦を経てこれら商品としての〈物語ソフト〉の上位カテゴリーであった〈天皇家をめぐる物語〉はその支配力を奪われ、〈物語ソフト〉はより一層解放される。当然、戦後社会の〈物語ソフト〉は「戦後民主主義」や「アメリカの影」といった枠組みから逃れていないが、これら新たな枠組みが戦前のような具体的なストーリーをもって示し得る〈物語〉としての外見を持たないために個々の〈物語ソフト〉がこれらの枠組みに従属していることは相対的に見えにくい。
ところで人が〈物語〉を欲するのは〈物語〉を通じて自分をとり囲む〈世界〉を理解するモデルだからである。ムラ社会に於ける民話、戦前の日本社会に於ける例えば国定教科書で採用された日本神話はそれぞれの〈世界〉の輪郭を明瞭に示すモデルであった。同時にまたこれらの〈物語〉がその空間及び構成員の範囲が明瞭で具体的な共同体に根をおろし、その構成員によって共有されていることが大切である。〈物語〉に縛られることは共同体に縛られることであり、だからこそ権力は常に〈物語〉を自らの管理下に置こうとするのである。
しかし今日の消費社会ではこういった明瞭な形で人を生涯にわたって縛る共同体が存在しない。確かにわれわれは日本国籍を有するが同時に国家意識は個々人には極めて稀薄である。左右それぞれの政治的立場にある少数の人々はこの様な考え方に異議を唱えるだろうが、われわれの自意識は良くも悪くも「なんとなく日本人」以上の国家意識を持たない。また家族、親戚、地域社会、学校、会社といった擬似的な共同体は多数存在しそれなりに人々を拘束するがこれらの大半は一時的であったり、選択可能であったりしてかつてのムラや国家のように人を生涯にわたって縛ってくれるわけではない。唯一、家族が比較的、拘束力を保っているが、それさえも例えば〈先祖〉という時間軸に結びつかずむしろ親子という単位で完結し、それが親戚なり地域なりの下位カテゴリーとして位置づけられることはあまりない。
人は〈物語〉を通じて世界に呪縛される。そう欲している。その世界が選択不可能な一つの共同体として明瞭に示されていれば、人は極めて限られた〈物語〉しか必要としない。〈物語〉が具体的な共同体とセットになっており、しかもそれが一つであれば選択すべき〈物語〉は少数ですむ。娯楽としての〈物語〉も当然必要とされるが、既に〈物語〉を通じて具体的な共同体に帰属している人とそうでない人では〈物語〉に対する飢餓感は当然、異なる。この消費社会では、人が具体的な共同体に強く縛られることを良しとしない倫理が戦前への反省から存在している。また(略)〈物語〉と〈共同体〉の分離も達成されているから〈物語ソフト〉をいくら消費しても、その消費していく時間のみは〈物語〉にひたれる。しかしそれだけの話である。〈物語〉への飢餓感は社会に縛られる(抱かれる、と言い換えてもよい)あるいは縛ってくれる社会の存在を明らかにすることであるから〈共同体〉と切り離された〈物語ソフト〉をいくら消費してもその飢餓感は決して満たされない。〈物語〉への過剰なニーズは〈物語〉と〈共同体〉の分離の結果起きたのであり、この決して満たされない仕掛けからなる〈物語〉への飢えが〈物語ソフト〉の複製や流通の技術の進歩と結びついて(あるいはそれを半ば促して)今日の、個人の消費キャパシティをはるかに超える量の〈物語ソフト〉の氾濫という事態を生んだのである。(「物語消費論の基礎とその戦略」、pp.21-24)