レーニンと農民(メモ)

過渡期の世界―近代社会成立の諸相

過渡期の世界―近代社会成立の諸相

太田仁樹「レーニンにおける旧ロシア農村と変革主体」in 鈴木信雄、川名登池田宏樹編『過渡期の世界』、pp.321-344


先ず露西亜農村の「ミール共同体」について;


一九世紀から二〇世紀の交わりにおけるロシアは、ウォーラスティンのいう資本主義世界システムの「半周辺」に位置していた。農民を犠牲にした穀物の輸出、フランスからの資本輸入、ドイツからの技術導入という、「上から」の資本主義的工業化の基底には、雇役制農業構造とミール共同体が存在していた。共同体はストルィピン改革期の急速な資本主義発展にもかかわらず残存し、十月革命後は大幅に復活し、スターリンによる強制的集団化まで生きのびた。(略)
一九世紀のロシアの思想家は、この農村共同体の存在をロシアにおける独自な要素と考えて、さまざまに論じた。スラヴ主義者やツァーリズムのイデオローグたちは、共同体を古来からのスラヴ人の制度として、革命にたいする防波堤と考えてきた。共同体から農民が脱退する権利を制限する政策の背後にはこのような見方があった。ゲルツェンやチェルヌィシェフスキーは、共同体のなかに将来の社会主義社会の基盤を見いだし、資本主義発展による苦痛から農民をまぬがれせさせるものと考えた。(中略)共同体をどのように見るのかは、一九世紀末のロシアの革命運動の二大潮流である、ナロードニキマルクス主義とを区別する大きな指標の一つであった。(pp.321-322)
若い頃のレーニンの思想を考える上では、「ナロードニキ」と「啓蒙思想」の対立の方が重要であろう。「ナロードニキ」が「共同体の強化、分与地の譲渡禁止」を主張したのに対して、スカルージンのような啓蒙思想家は「農民を共同体や分与地に緊縛することに反対した」(p.323)。
レーニンの兄のアレキサンドルは「ナロードニキ」の活動家であり、レーニン自身も「ナロードニキ系のサークルから出発し、二〇歳代前半には、彼なりのマルクス主義の立場を確立した」(p.322)。
マルクス主義者になりたての「時期のレーニンにおいては、資本主義的なもの、ブルジョア的なものが、ロシアの現実よりもずっとすぐれたものと考えられていた」(p.326)−−

ブルジョア的なものに対する(中略)肯定的な評価は、この時期のレーニンがいわゆる「非連続的二段階革命論」の戦略をとっていたことにも照応している。この時期のレーニンによれば、ロシア社会には、ブルジョアジープロレタリアートという近代的階級対立(富農=農村ブルジョアジーと貧農=農村プロレタリアートとの対立も含む)のほかに、「農奴主的地主」対「農奴的農民」という前資本主義的階級対立があり、さらに前資本主義的社会制度の残存物の政治的代表としてのツァーリズムとそれに反対する全社会勢力との対立があった。当面のロシアにおける諸階級対抗の構造は、〈ツァーリズム+地主(前資本主義社会における搾取階級)対〈プロレタリアート(近代的被搾取階級)+農民(前資本主義社会における被搾取階級)+ブルジョアジー(近代的搾取階級)〉という構図で表される。ブルジョアジーは、農民とともにブルジョア革命における同盟軍とみなされているのである。(p.327)
初期レーニンの「共同体」に対するスタンスは「敵視」ではなく「無関心」。『ロシアにおける資本主義の発達』における「農民的土地所有の形態にかんする問題を、きわめて無関心にとりあつかうのである」という言明を巡って;

資本主義以前の農民的土地所有がいかなる形態であるのかにかんするレーニンの無関心は、資本主義の発展が農村に階級分解を生じさせ、農村ブルジョアジーと農村プロレタリアートという単純な階級闘争に帰着するという確信に密接に結びついている。前資本主義的な土地所有形態に「無関心に」資本主義発展を考える態度は、資本主義発展の類型的な相違を意識させない。ロシアにおいては資本主義化の過程は遅れてはいるが、いずれ資本主義的関係が定着するのであり、共同体の命脈はすでにつきているという判断であろう。共同体に対する「無関心」はレーニンの特徴であり、肯定的な観点から共同体を重視するナロードニキとも、共同体の否定的な役割を重視したプレハーノフとも異なっている。レーニンにとっては、もはや共同体はそれほど意識すべきものではなく、将来社会の担い手たるプロレタリアートは、資本主義化の進展とともに、農村においても育ってきているということであろう。
初期レーニンのロシア社会認識においては、共同体は否定的にとらえられてはいるが、とりたてて敵視されることもなかった。擁護策は拒否されているが、共同体はすでに過去のものであり、資本主義化の進展とともに消滅していくものと考えられている。「無関心」とはそのような共同体観を表すものといえよう。他方、資本主義のもたらす肯定的な作用は、彼の生涯のうちでももっとも高く評価されている。ブルジョア的なもの、西欧的なもの、都市的なものが農村的なものと対比されて肯定的な側面が強調されている。資本主義的の肯定的作用の強調の背後には、変革主体としてのプロレタリアートに対する素朴な信頼もあったのであるが、この時期のレーニンは、富農も含めたブルジョア勢力を、彼の後の時代よりも高く評価している。非連続的二段階革命論は、当面する革命後の社会のブルジョア的成熟を想定するものであるが、そのような構想は、ブルジョア的なものに対する肯定的な評価に結びついていたのである。(pp.329-330)
レーニンの農民観が変化するのは、20世紀になって、自由主義や「経済主義」と決裂して以降。否定的「無関心」から「操作対象」へ。その時期を画する『何をなすべきか』*1を巡って;

マルクス主義者としてのレーニンは、当初から労働者階級を革命主体として特権化していたが、社会主義イデオロギーの労働者大衆の意識からの「独立性」の強調は、自らのイデオロギーのロシア社会の現実からの「独立性」をも許容することとなる。いわば自らの社会的存在拘束制(sic.)からの脱却といえよう。マルクス主義者にとっての社会的基盤とされている労働者階級でさえも、獲得対象あるいは捜査対象とみなされるようになるなら、同盟軍とされる農民やブルジョアジーもまた獲得対象あるいは捜査対象としてのみ扱われるであろう。農民やブルジョアジーの社会的性格は、ツァーリズムに対する闘争能力という政治的・運動論的な観点から判断されるようになる。(pp.333-334)
なにをなすべきか?―新訳 (国民文庫 (110))

なにをなすべきか?―新訳 (国民文庫 (110))

『一九〇五−一九〇七年の第一次ロシア革命におけるロシア社会民主党の農業綱領』では、

専制の側が共同体の擁護ではなく、ヨーロッパ的な(=プロイセン型)資本主義的発展をめざすとされたのに対して、農民はアメリカ型の資本主義発展の担い手とされる。レーニンアメリカ型の道を切り開くブルジョア的方策としての土地国有を提起したが、その担い手は農業資本家ではなく農民だと考えられているのである。(pp.336-337)
また、

一九〇五年革命以前には、農民は過去の残滓であり、農業資本家と農村プロレタリアーとへ分解していく存在でしかなかったが、ここでは急進ブルジョアジーとして社会的性格規定を変えられている。この農民の性格規定の変更は、農民層の経営と生活の実態が調査されてそのように結論づけられているのではなく、戦略的な同盟軍の根拠づけのために、そのように規定されたものにすぎなかった。操作対象として社会的諸勢力をとらえ、その意味づけをマルクス主義的階級論の枠組みのなかでおこなおうとしたものである。
共同体についてのレーニンの認識も若干の変更をみた。『農業綱領』では、共同体の二重の役割(「昔の遺物」と「地主の屋敷に働きかけるための機構」)についてのアレクシンスキーの発言が肯定的に引用されている。しかしこれも、レーニン自身が共同体の実態について認識を深めたうえでのものではない。反地主闘争の担い手をいかに味方に取り込むのかという、すぐれて運動論的な評価であったといえよう。(pp.337-338)
革命後−−

ボリシェヴィキの農村革命の構想は、貧農委員会の組織化による反地主闘争の中核の形成であったが、一九一七年の時点に、ボリシェヴィキは農村にほとんど影響力をもたなかった。これがエス・エルとの妥協を余儀なくさせた理由であった。しかし、農村や共同体の実態についてのボリシェヴィキの認識の変化を基礎として、「土地に関する布告」が発表されたわけではなかった。農民そして左翼エス・エルは、政治的獲得対象あるいは捜査対象とみなされるにすぎなかった。ボリシェヴィキは、農民や左翼エス・エルとは違った極から問題を解決するという態度を堅持している。両者はどこかで衝突せざるをえないであろう。戦時共産主義は、農民の極からの問題の解決を封殺し、ボリシェヴィキ的解決を押しつけようとするものだった。しかし、「実生活」はボリシェヴィキに再び農民への妥協を強制し、新経済政策(ネップ)が導入されざるをえなかった。農業政策の破綻に直面してたレーニンは、自分たちの政策の実現の困難性を、ロシアの後進性に帰させようとした。(pp.339-340)
初期レーニンへの回帰? しかし、「社会諸勢力を操作対象として見る観点」は変わっていない(p.341)。