「集合体」と「集合心性」

革命的群衆 (岩波文庫)

革命的群衆 (岩波文庫)

ジョルジュ・ルフェーヴル『革命的群衆』(二宮宏之訳)*1から;


(前略)人間の集合体はすべて、ある社会の内部において形成される。たしかに、こうした集合体に加わるにあたっては、個人は、彼が通常その一部を成している社会集団から、一時的にりふぁつすることが必要である。しかし、それだからといって、彼は、その社会集団の集合心性を完全に捨て去ることができるわけではない。その集合心性に含まれているさまざまな観念や感情は、彼の意識の背後に押しやられているにすぎない。しかもその背後に押しやられる度合は、集合体が、どの程度異質の要素からなっているかに応じてさまざまである。たとえば、工場からはき出されてくる労働者たちがつくり出す集合体では、労働者たちは企業の支配から脱しはするが、労働者階級としての集合心性はそれほど簡単になくなりはしない。(略)農村の集合体の場合でも、農民たちが、彼らの属する村落共同体の関心や情念を完全に見失うなどということはないのだ。他方また、こうして新たに集まった者たちは、制度化されてはいないものの、新しいグループがひとつの集団としてつくり出す集合心性を帯びるのである。たとえば、生産者や買占め商人に対立する、消費者としてのグループといったものがそれである。実際、集合体が、集合心性を弱めるどころか、逆にそれを強化することもありうるのだ。市場やパン屋の店先の行列などに見られる集合体の場合がそうである。さらには、次のように言うことすらできるかもしれない。すなわち、集合体にまぎれこむことによって、個人は、彼の日常生活を枠づけている小社会集団の規制から脱し、より広い結びつき――彼はそのような結びつきに加わっているわけだが――に特徴的な考え方や感じ方に、はるかに敏感になりうるのだと。(pp.29-30)

最後に、集合体がどんなに無意識的なものであり、また異質の要素からなるものであっても、その、メンバーは語のもっとも広い意味での社会に属しているのであって、社会が成り立つためには不可欠な基本的集合観念、すなわち、社会の成員はその生命と財産を尊重される権利を有するといった考えが、そのメンバーの意識から消え失せることはありえないのである。(略)集合体つまり純粋な群衆に典型的な現象といえば、それはパニックであろう。メンバーが、彼らの存在を脅かす危険に対し、共同で身を守る状態にもはやないと確信するに至ると、社会的絆は決定的に損なわれ、個人はもはや逃走のうちに救いを求める以外に術がなくなるのである。(p.30-31)