忘れること

山室信一「余と到――読書をめぐる三と四――」in 岩波文庫編集部編『読書のすすめ 第14集』*1岩波書店、2010、pp.67-76


佐藤一斎『言志後録』を引く;


今は則ち老いたり。少壮に読みし所の書、過半は遺忘し、茫として夢中の事の如し。稍々留まりて胸臆に在るも、また落落として片段を成さず。益々悔ゆ、半生力を無用に費ししを。今にしてこれを思ふに、書は妄りに読むべからず、必ず択び且つ熟する所あれば、可なり。(p.72に引用)
山室氏、一斎の言について曰く、

だが、多読なくしては何を選び、何を熟読・熟考すべきかもわからなかったはずであるから、忘却してしまったことを今更悔いてみたところで甲斐無きことになろう。ただ、自分自身を慰めるために思い浮かべる言葉に、「学ばなければ忘れない」というバスクの処世訓がある。忘れるということは、読み、学んで初めてできることであり、読まなければ忘れることさえできない。忘れ去ったことの空しさを悔やんで余生を送るのか、忘れること、いや忘れられるものを一度は得ることができたことを人生にとって幸運であったと思い做すのか――それへの答は、「生の余」をいかに使うかによって最後に出すことになるのであろう。(ibid.)
昔読んだ本のことを忘れてしまって思い出せないというのは、古今の〈読む人〉にとってはかなり普遍的なお悩みであるのだな。ところで、この忘れることの可能性(必然性?)が読むことから語ること、或いは書くことへの移行を動機付けるということはあるのではないか。どんな知識も脳内で独占していても時の流れとともに劣化していくだけだろう。忘却に抗するひとつの仕方は独占を止めて、無理矢理他人にそれを共有させること。拙blogを綴る動機の一部もそれだ。