本の「旅行記」

津村記久子*1「古典文学周遊ミニツアー」『書標』(丸善ジュンク堂書店)529。pp.2-3、2023


自著『やりなおし世界文学』について。「八年ほどの期間にわたって、月に一冊、「たぶんこれが世界文学っていうやつのはずだ」と独断で思った本を読んで、その感想を記した文章をまとめた本」(p.2)。


本の感想の本だけれども、気持ちとしては旅行記に近い。ある場所に行く代わりに本を読む。それでその所感を言う。住人になろうとか、その場所について少しでも物知りな人として見られようという気持ちは持たないようにする。駅を出た瞬間に見える景色がすばらしいならそう書く。でも駅前の信号が長いのならそれも書く。それで、旅行関連のレビューサイトで、現地の循環バスの時刻表が投稿されていて助かる、というような様子を目指して、本の感想を書いていたような気がする。その場所をよく知っている現地の人からしたら基本的すぎて(または旅行者的すぎて)気にも留めないようなことを書く。
読む本の決め方も、その月の中で時間が確保できる場合は長い本、できない時は短い本、という、けっこう身も蓋もない決め方をしていた。今日は時間がとれるから四泊五日、来月は忙しいから二泊三日、みたいな感じで、それも旅行っぽいと思う。でもとにかく、毎月出かけていた。毎月出かけて、この駅は電車がなかなか来ないけれどすごく景色がいいとか。この山は自分には登ってみる価値があったというようなことを記していた。(pp.2-3)

(前略)毎月本を読む中で、自分自身も少しずつ変わっていったように感じる。具体的にどう変わったかというと、他人やフィクションに対して鷹揚になった。人間はわりとずっと同じことを考えているのではないか、ということを小説を通して実感し、また、自分が理解できない人たちはどの時代にも一定数いるのだ、ということを学んだ。昔の小説を読んだら、人間の普遍的な姿がなんとなく見えてくる、ということは、もしかしたら、この仕事を通して自信を持って言える数少ないことかもしれない。今も昔も人間はうっかりしてていらいらしてて邪悪で善良で冷血で優しくてものすごくしょうもなくて、本当にごくごくたまに偉大だ。わたしが自分の少ない人生経験から言っているんじゃなくて、小説を書いてきたたくさんの人々に見えていたそれぞれの世界を少しずつ紹介してもらうとそんなふうだったという話なので、よろしければ信用してください。(p.3)