みんなナイーヴ!

金明秀「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」http://han.org/blog/2010/02/post-119.html


曰く、


 「朝鮮学校がサッカーの地域代表になったとき、それを応援しなかったのは差別だという話がある。でも、朝鮮学校に知り合いはいないし、別に応援したいと思わなかったから応援しなかっただけ。それを差別だといわれるのはおかしい。最近、差別差別だといいすぎじゃないか。」

 なるほど、一理あるように聞こえます。「コーラは好きだけどオレンジジュースは好きじゃない。おなじリクツで、東海大仰星なら応援し、大阪朝鮮高なら応援しない。それは単なる好みの問題であって、差別じゃない。それを差別というなら、ご飯よりパンがすきだというのも差別になるじゃないか」というところでしょうか?

一般に、或る特定の変数が或る特定の結果に対して決定的な影響力を持っていると判断するためには、他の変数はみんな大体同じという前提が存在する必要がある。差別ということで思い出すのは、出典は忘れてしまったが、同じ声の調子・文言で、一方ではいかにもユダヤ的な名前を使って、他方ではいかにもアングロ=サクソン的な名前を使って、ホテルに予約の電話を入れた場合、結果はどう違うのかという社会心理学の実験。上の例にはこの例のようなクリアさがあるのかどうか。しかし、平均年収とか平均学歴とか平均寿命といったマクロな統計データに関して、或る特定の集団が顕著な仕方で値が低いという場合、そこに差別という変数が影響していると考えるのは合理的である。ただ、各変数の実際の影響力は(理論的には)因子分析によって明らかにされるということになるだろう。何が言いたいのかといえば、金氏の議論も彼に反発する人も、all or nothingの議論になっているのではないかということだ。
さて、金氏に対するkntkmという人*1のコメント;

私は日本人ですが、現在アメリカに留学中ということで、マイノリティーの辛さは日々ひしひしと実感しています。
差別というのは本当に辛いものです。共感します。

けれど差別というのには”権利の差別”と”好き嫌いの差別”の二つがあり、”権利の差別”は社会的に許されませんが、”好き嫌いの差別”は社会的に許されるものなのです。

例えば太っている人は恋愛において異性から嫌われることが多いですが、太っている人を好きになるかどうかは完全に個人の自由であり、太っている人も好きになってくれ、と頼むのはナンセンスです。これは好き嫌いの差別です。

朝鮮学校のサッカーチームの応援がなかったということですが、そのことで生徒の権利が否定されたと言えるでしょうか?
チームが大会に参加する権利はちゃんと保障されています。
確かに生徒たちの感情は傷ついたかもしれません。しかしその程度感情を害する出来事は在日朝鮮人だけではなく、全ての人に日常的に起こります。例としては太っている人だったり、不細工だったり、足が不自由だったり、知的障害だったり、人種に限らず他人から嫌な目で見られることはいっぱいあります。つまり好き嫌いの差別は社会の誰にでもあるということです。

好きになってもらえないからと言って「差別だ!」と主張するのはナンセンスなのです。

私は決して白人に、「アジア人は差別されている。もっとアジア人を好きになってくれ」というお願いはしません。何故なら私は、どんな人種でも平等に学校に通う権利を与えられている、つまり社会的に“権利の差別“はないということを知っているからです。
白人にはアジア人を好きにならない権利があります。

好き嫌いの差別を乗り越えるためには、好きになってもらえるような努力をするしかありません。生まれつきのものは変えられませんが、自分が変わっていく努力をするしかないのです。

在日朝鮮人の社会的な権利は十分保障されています。
日本人から好きになってもらえるかどうかは、結局個人の努力、そして在日朝鮮人全体としての努力次第なのです。
頑張ったからといって日本人に好かれる保障はありませんが、そのための努力をするかどうかは結局自分次第です。

この人の議論も2つの意味でナイーヴだと思う。先ず、「権利」と「好き嫌い」という区別が大雑把であり、中間領域を無視しているということ。そして、「好き」とか「嫌い」という判断が生成する認知的なメカニズムへの洞察がないこと。
「権利」の問題、right/Richt/droitの問題。これを言うならば、常識的にも刑事と民事を分けるべきなのでは? 上の例で出したユダヤ人を差別したホテルが刑事責任を追及されるかどうかはわからないが、もし民事で争えば負けるだろう。これは就職差別とか結婚差別とかについてもいえる。
また、特に現代の自由主義社会において、差別の問題は(個人や集団の言動や振る舞いに関しては)〈罪の文化〉よりも〈恥の文化〉*2によって規制されているといっていい。矜恃のない人間はなりふりをかまわないが、矜恃のある人間はかまう*3。少なからぬ人が差別的な言動や態度を慎むのは、自分がリベラルで教養ある人間だという矜恃のため、(最近ではすっかり評判の悪い言葉になってしまったが)品格を保つためである。これは主観的な思い込みだけではなく、自分がそうであることを社会的に期待されているということを自ら了解しているという構造を持っている。顧客を差別したホテルの例でいえば、そういうことが暴露されれば、関係者は恥を掻き、またそのブランド・イメージが傷つき、売上げも落ちるというような仕方で責任を取らざるをえないということになる。
「好き」・「嫌い」の判断について。私たちの知覚にせよ判断にせよ、ゲシュタルト的な構造を持っている。つまり、最初に大まかな全体の枠組が知覚或いは判断され、それから部分(ディテイル)がその枠組の内部で、それに合った仕方で知覚或いは判断される。もっと正確にいうと、その大まかな全体の枠組は、知覚や判断に先立って、先行的判断(prejudice)として与えられている*4。このprejudiceは偏見、先入観、先入見と訳されることもあるが、先行的判断という直訳が価値中立的で、しかもわかりやすいといえるだろう。私たちの知覚や判断にこのような機制があることは、いちいち難しいことを考えなくても、


坊主憎ければ袈裟まで憎い
あばたもえくぼ


といった日常的表現を思い出してみれば、直ぐに理解できる。差別というのが関わるのはこの先行的判断なのだ(差別に関係する場合、prejudiceは偏見と訳すのが妥当になるだろう)。自然的なものであると等閑視されている「好き」・「嫌い」の判断が常に・既に、判断に先行して与えられる判断によって規定されているということには注意を払うべきだ。とはいっても、先行的判断はあらゆる知覚や判断を可能にする条件でもあるのだが。また、これはイデアールな一般項とリアルな個物との関係として考えることができるのだが、それはともかくとして、先行的判断(偏見)が個別の判断に影響を与えるプロセスを考えてみたい。例えば私が〈##人は愚かだ〉という先行的判断(偏見)を持っているとして、優秀な##人に出会ってしまったら、どうなるのか。その場合は、例外として処理される。もし愚かな##人に会ったとしたら、それは先行的判断(偏見)を確証する証拠として採用されるだろう。こうしたメカニズムについては、「偏見」についての古典的な社会心理学研究であるオルポート『偏見の心理』を参照していただくとして、さらにフェスティンガーの『認知的不協和の理論』を参照すれば、先行的判断(偏見)と「不協和(dissonant)」であるような情報はそもそもスルーされる傾向にある。さらに、もう一言追加すれば、少し前にsocial topographyの話をしたのだが*5、先行的判断(偏見)はサッカーの観客数の多少のようなこととは比べものにならない悲惨な帰結をもたらす可能性がある。例えば冤罪とか。部落解放同盟狭山事件の捜査や裁判をたんなる冤罪事件ではなく、悪質な差別事件として糾弾したのはこのことと関係がある。

偏見の心理

偏見の心理

認知的不協和の理論―社会心理学序説

認知的不協和の理論―社会心理学序説

あと関連して、http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20100220/1266598419を巡って。

例えば2次大戦中のメリケンでは、今よりもさらに日本人に対する偏見がひどく、日本人を好きになってくださる白人様は希少だったろうけれど、これは日本人が白人様に好きになってもらうための努力をしなかったからか? 日本人が変わったから日系人メリケンの社会で受け入れられたんか?

バカ言うなよ。

変わったのは白人社会のほうだろが。

これはkntkmが

とはいえどこまでが"もっともな理由"であり、どこまでが“でたらめな理由”であるかを判断するのは難しく、結局個人の裁量次第という場合が多いので、その差別を社会的に許容するかどうかは結局社会の裁量次第なんだと思います。
そうなるともちろん社会的価値観の形成能力に劣るマイノリティーは不利になりますが、それはマイノリティーの宿命でもあり、マイノリティー自らの力で乗り越えていくしかないと思われます。
と言っているのが一方的であるのと同様に、一方的だといえるだろう。社会内の個人間・社会集団間の関係は相互作用の効果としてあるのであって、どちらかの一方的な働きかけの結果ということはない。また、このようにいうことによって、「マイノリティー」から判断能力・行為能力を理論的に剥奪してしまう危険がある。さらに、どちらもマジョリティ/マイノリティという軸でしか考えていない。社会学的社会運動論の資源動員論(theory of resource mobilization)に従えば、社会運動の成功は〈善意の第三者〉を味方に引き入れること、少なくとも好意的中立を保ってもらうことにかかっている。

あと、好き嫌いなんてのは教育やメディアによってだいぶ操作できるものですよにゃ。

偏見を植え付ける教育や報道をさせておいて、「好き嫌いの自由」なんてことが通るのであれば、権力者様は大ラッキーにゃんねえ。

これは大枠としては間違ってはいないのだが、やはり一方的だといえる。方法論的・倫理的な問題として、「教育やメディア」にオムニポテントな力を与えることによって、「好き嫌い」を判断する個人をjudgmental dopeにし、その一方でその判断の責任を解除してしまう危険を指摘しておきたい。