橋とK

ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)

ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)

ゲオルク・ジンメルは「橋と扉」(鈴木直訳 in 『ジンメル・コレクション』)にて、「事物は、一緒になるためにはまず離れ離れにならなければならない」(p.91)として、

分離と結合の相関関係において、橋は結合にアクセントをおき、同時に、橋によって視覚化され、また測定できるようになった両岸の距離を克服しているとすれば、扉はより明確な形で、分離と結合が同じ行為の両側面にすぎないことを表現している。最初に道を作った人と同様に、最初に小屋を建てた人もまた、自然にたいする独特に人間的な能力を発揮したと言える。すなわち彼は連続する無限の空間のなかから一区画を切りとり、この区画をひとつの意味にしたがって特殊な統一体へと構成したのだ。こうして、ひとつの空間部分が内的なまとまりを得ると同時に、他のすべての世界から切り離された。扉は、人間の空間とその外部にあるいっさいのもののあいだに、いわば関節をとりつけることによって、この内部と外部の分断を廃棄する。(pp.94-95)
と書く。
ジンメルがもし日本語が読めたとしたら、小池昌代の「岸と橋をめぐって」という詩をどう読むのだろうか;

傲岸、というように
岸がその意味をつくっているとき
わたしは岸という、孤独をおもってみる
川を中に流して
えいえんに和することのない
ふたつの岸のつよさをおもう



   かためて
   きりり
   くいいる
   けつだん
   こわごわ、ころして
   きびしい
   くぎょう……



なぜ、か行は多くくるしんでいるんだろう
きし、も?



右岸と左岸に
けれど、橋がかかるとき
橋はふたつの岸をとかし
人たちは、両岸の土を柔らかく同質化するだろう
橋の中央でてばなされ、交換される右と左
方角、あるいは日と影


橋がつくられるところを見たことがない


――月番の労働者が弁当を食べるのは、ここ
  から見て、日のあたる右岸。日陰の多い
  左岸には、古い自転車が一台、乗り捨て
  られてある。車体を半分川につっ込んだ
  まま、いつ行っても片づけられずにそこ
  にある。行く毎に少しずつ、さびついて
  くさっていくのがわかる。左岸という、
  ひびきを、わたしはあいしているようだ。
(『小池昌代詩集』(現代詩文庫174)思潮社、pp.37-38)

小池昌代詩集 (現代詩文庫)

小池昌代詩集 (現代詩文庫)