先ず、小池昌代の詩について語った角田光代の「詩と向き合う覚悟」(『小池昌代詩集』思潮社、pp.152-155)から;
物語を読む、もしくは詩を読む、ということを、完璧に受動的行為だととらえている人は、意外に多い。まるでバスに乗るみたいな行為だと。
バスに乗ってしまえば行き先は決められない。目に入る景色も決められない。私たちはただ、座席が空いていれば座り、空いていなければつり革にぶら下がって、さらさらと流れていくおもての景色をぼんやり見ている。ものを読むということを、こういうふうにとらえている人は、たやすく「最近はおもしろい本がない」と言う。「この本おもしろくなくて読めなかった」と言う。
しかし、違うのだ。小説なり詩なり、あるいはエッセイや童話、そういうものの言葉を読むというのは、とことん能動的な行為であるはずだ。読むということもまた、書くことととてもよく似た「創る行為」であるはずだと、私は思っている。
小池昌代さんという詩人は、そういう意味で、読み手の創作力をとても信頼しているのではないかと、彼女の詩を読んでいると思う。あるいは彼女は、読むことと創ることが同義だと自身が熟知しており、だから、私たちの前に無防備な(さらに創られるものとしての)言葉をぽんと投げ出す。言葉はとても繊細で精巧だが、投げ出されかたはしかしたいへん無造作である。(p.152)
ある言葉なり、一文なりに接したとき、私たちは自分の体験に照らし合わせてそれを読む。「夕日が海の向こうに沈んでいった」と読んだとき、私たちはかつて自分の見たことのある「海」と「太陽」を思い浮かべ、見たことのある夕日の色を、その光景にぬりつける。海も太陽も日暮れも見たことがなかったとしても、私たちはきっと(とんちんかんにせよ)自分の内から何か引きずり出してきて、その光景を想像する。
読み手もまた創り手である、と私がいうのはこういうことである。文字と向き合うには、自分の体験や記憶を一瞬で動員させて、目の前の活字を理解しつつ、他人の言葉と自分の言葉を融合させていく。結果、読み終えた活字は、その人個人しか所有し得ない物語になる。
読書が受動的行為だと思っている人は、こういう作業ができない。そこに書いてあるものは、自分とはまったく違う次元のできごとだと思っている。夕日が海の向こうに沈んでいったと読み、理解しても、墨絵のような世界しか思い浮かべることができない。そしていともたやすく言う、「つまらない」と。この「つまらない」のは、そこにある物語がつまらないのではなくて、自身がつまりつまらないのだ。何かを創るに値する体験も記憶も持ち合わせたことがないからつまらないのである。(p.153)
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(…) By “read” I mean not just run the words passively through the mind’s ear, but perform a reading in the strong sense, an active responsible response that renders justice to a book by generating more language in its turn, the language of attestation, even though that language may remain silent or implicit. Such a response testifies that the one who responds has been changed by the reading. Part of the problem, as you can see, is that it is impossible to decide authoritatively whether or not we should read Heart of Darkness without reading it in that strong sense. By then it is too late. I have already read it, been affected by it, and passed my judgment, perhaps recorded that judgment for others to read. (…) Each must read again in his or her turn and bear witness to that reading in his or her turn. In that aphorism about which Jacques Derrida has had so much to say, Paul Celan says, “Niemand / zeugt fur den / Zeugen (Nobody / bears witness for the / witness).”*1 This might be altered to say, “No one can do your reading for you.” Each must read for himself or herself and testify anew. (p.104)
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と疑問文を連発している。これは『闇の奥』、さらにはコンラッド自身が「人種主義者」「性差別主義者(sexist)」として糾弾されている最中にあることを踏まえている――
Should we read Heart of Darkness? May we read it? Must we read it? Or, on the contrary, ought we not to read it or allow our students and the public in general to read it? Should every copy be taken from all the shelves and burned? (ibid.)
ここでMillerが挙げているのは、ナイジェリアの小説家Chinua Achebeの”Conrad was a bloody racist”という批判とBette Londonの批判、それからエドワード・サイードの『文化と帝国主義』における批判である(pp.108-109)。
Conrad’s novel is brought before the bar of justice, arraigned, tried, and judged. The critic acts as witness of his or her reading, also as interrogator, prosecuting attorney, jury, and presiding judge. The critic passes judgment and renders justice. (p.108)
Chinua Achebeについては、
Petri Liukkonen “Chinua Achebe” http://www.kirjasto.sci.fi/achebe.htm
Ed Pilkington “A long way from home” http://www.guardian.co.uk/books/2007/jul/10/chinuaachebe
Bette Londonについては、
http://www.rochester.edu/College/eng/faculty/bette_london.html
を取り敢えず参照のこと。
ところで、Millerによると、『闇の奥』は「反復的な擬人法(prosopopoeia)の使用」を特徴とする(pp.120-122)。とすると、『闇の奥』という日本語タイトルは問題となるだろう(岩波文庫版だけでなく、光文社からの新訳も『闇の奥』というタイトルを受け継いでいるようだが)。というのもHeart of Darknessというタイトル自体がdarknessという抽象名詞に「心臓(heart)」を与える擬人法であるからだ。
*1:“Aschenglorie.” 英訳はPierre Joris(“Ashglory”)。