Ghost Platoonなど

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20100823/1282574475


興味深く読む。
福井市における柴田勝家とその家臣の亡霊と目される「首無し武者の一隊」の行進。また、ガダルカナル島で玉砕した「一木支隊(旭川第七師団二八連隊)」の旭川への「帰還」。さらに、かつて「陸軍刑務所」だった渋谷区の某小学校における二二六事件の青年将校たちの行進。
先ず幽霊部隊の行進という説話は日本だけでなく、世界中にありそうな気がする。”ghost platoon”でGoogleをかければけっこう出てきそうな感じがする(まだしていないけれど)。
「首無し武者」の「首無し」。コメント欄で「一つ目小僧」が言及されているように、これは主題論的に言えば〈欠如〉の問題であり、実は(その逆の)〈過剰〉と構造論的に等価であろう。それから、「首無し武者」を見た者は「一年以内に死ぬ」という。それは見るなという「禁止に説得力を持たせるために付け加え」られたものであろうという。それはどうだろうか。説話論というか、物語のシンタックスという面から言えば、禁止は屡々侵犯を誘発するために設定される。規範がなければ違反もあり得ないわけだし、〈開かずの間〉*1も禁止に反して開けられてしまうことによって物語の新しい展開が開ける。さらに次のようにも考えられる。常識的には説明が難しい死があった。説明し難い死を何とか説明するために、遡行的に禁止と違反の物語が改めて語られ、根拠とされた。何れにしても、何故「禁止」されたのかが謎として残ってしまうのだが。
それから、一連の幽霊部隊の説話では「行進はまず足音によって気づかれている」。そして、「だれも兵士たちの顔を識別していない」。福井の場合では「識別」どころか「顔」そのものが欠落している! 聴覚の視覚に対する優位。思い出したのは訪れという言葉。訪れ=オトヅレ=音連れ。芝居や落語で幽霊が登場する時はあのひゅうどろどろという固有の効果音を伴わなければならぬように、神にせよ物の怪にせよ幽霊にせよ、この世ならざる者たちのこの世への訪れは先ず特有の音によって告げられるとはいえるだろう。ただ、雷(=神鳴り)というのもあるけれど、あれはヴィジュアル(稲妻)が先行するよなと思った。稲妻に関してはジェンダー論的混乱もあって、よくわからないのだ。稲妻ということで、雷は女性なのだろう。稲が男性だということになる。雨=精液だとすると、それは稲が属する地からではなく雷が属する天からもたらされるものだ。また、実が稔るのは稲であって、それだと男性が妊娠するということになってしまう。ということで、もう稲妻について語るのは止めようと思ったが、現代では稲妻は妻という語を含んでいながら、男性的なものとして表象されているということにも気づく。例えば昔のアリスの曲で「冬の稲妻」――「あなたは 稲妻のように/私の心を 引き裂いた」。ただ、この曲はジェンダー論というよりは年齢論的なコードによって解釈すべきなのかも知れない。だって、リフのYou're rollin’ thunderってどう聞いても養老院サンバ! としか聴こえないのだから。


古来、橋は異界と現世を結ぶ通路ともみなされてきた。橋の向こうから得体のしれない何者かがやってくるとしたら、それは異界からの使者であった。
「橋」の両義性に関しては、取り敢えずジンメルの「橋と扉」をどうぞということになる。それから小池昌代の詩「岸と橋をめぐって」*2
ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)

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小池昌代詩集 (現代詩文庫)

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