カントと公共性(メモ)

承前*1

批評空間 (第2期第4号) 京都学派と三〇年代の思想

批評空間 (第2期第4号) 京都学派と三〇年代の思想

久野収浅田彰柄谷行人「京都学派と三〇年代の思想」(『批評空間』II-4、pp.6-33、1995)からメモの続き。前回引用した部分の直前に当たる;


久野 (前略)フランス革命を承認した啓蒙の哲学者としてのカント、啓蒙というのは、未成熟の子供が自分で考え、自分で立つ一人前の大人になるということだから、哲学こそはそれを先導する学問だというカント、『世界公民的見地よりする一般歴史考』とか『大学学科間の争い』とか『啓蒙とは何か』とかいった論文に出てくるカントは、新カント派では大部分落とされてしまうんです。
柄谷 カントの『啓蒙とは何か』でいちばん印象的なのは、理性をパブリックに使用しなければいけないと言うとき、彼が国家とか官吏とかそういうものは私的だと言っていることですね。それはすごい転倒だと思う。
久野 それがフランス革命のカント的な学び方ですね。
柄谷 むしろそれはアダム・スミス的転倒に対応していると思う。つまり、個人主義的であることこそがパブリックだという考え。石橋湛山個人主義はそういうものですね。ルソーだと一般意志ということで国家が出てきます。官僚を養成する帝国大学では、どうしても国家が中心になる。いわば、カントからすぐにヘーゲルへいってしまう。やはりパブリックなものは国家だということになる。
久野 共同体モデルに基づく国家という方向ですね。共同体の一段高い延長として、国家が社会的にも倫理的にもいちばん高い存在になる。それで、カントからフィヒテシェリングを通って、ヘーゲルへ走っていくわけです。それが非常な問題だと思いますね。カントは啓蒙と革命の哲学者だが、フィヒテシェリングヘーゲルは、革命の挫折、懐旧的ロマン主義への復帰の哲学者だというG・H・ミード『一九世紀思想運動史』の規定は正しいと思うんです。(p.12)
啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

西洋近代思想史―十九世紀の思想のうごき〈上〉 (講談社学術文庫)

西洋近代思想史―十九世紀の思想のうごき〈上〉 (講談社学術文庫)

西洋近代思想史―十九世紀の思想のうごき〈下〉 (講談社学術文庫)

西洋近代思想史―十九世紀の思想のうごき〈下〉 (講談社学術文庫)

日本におけるカント受容の問題点については、鈴木直『輸入学問の功罪』、p.156ff.も参照のこと。
輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

公共性に関して、特にpublicとofficial、公と官の混同に関しては、see eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061008/1160281242 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061031/1162317330 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080814/1218687009 公共性を巡る問いとして、ここでは取り敢えず、齋藤純一『公共性』と稲垣久和『国家・個人・宗教』をマークしておく。
公共性 (思考のフロンティア)

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国家・個人・宗教 ~ 近現代日本の精神 (講談社現代新書)

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