レイシズム(apre Valery)

精神の危機 他15篇 (岩波文庫)

精神の危機 他15篇 (岩波文庫)

ポール・ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』に付せられた恒川邦夫氏の「ポール・ヴァレリーにおける〈精神〉の意味」によれば、ヴァレリーは19世紀末の「ドレフュス事件*1において「反ドレフュス」派だったという(p.506)。このことは今手許にあるヴァレリーの伝記本(清水徹ヴァレリー――知性と感性の相剋』*2、山田直『ヴァレリー』)には載っていない。ヴァレリーは晩年ペタン元帥をマンセーするテクスト(「ペタン元帥頌」)*3も書いている。恒川氏は「「ドレフュス事件」では反ドレフュス派に与して、友人たちと袂を分かったこともあるが、ヴァレリーはいわゆる反ユダヤ主義者・人種主義者ではない」という(p.507)。その根拠として、1940年に西班牙語に訳されたかたちで発表された「人種主義について」というテクストを引用している(pp.507-508)*4


〈人種主義(racisme)〉というのは弱さや恐怖の表れである。自分が消化され、同化され、溶解されてしまうのを恐れる人々に好都合を与える理論なのだ*5。なぜなら、そういう人々は自分たちが接触する異質な要素を自分たち自身が消化したり、同化したりすることは到底できないと思い込んでいるからだ。彼らには、異質な要素を前にしたとき、自分を守る方法として、それらを排除するか、隷属させるかしかないのだ。(略)[仏蘭西人が]他の諸々の人種と混合・交雑しても、自分の主要な性格や独自性を失うことを恐れなくてもよいのは、変形力があるからである。(略)様々な人種が存在するのに、人種の純血を言うのは、明らかに、人種が純粋であればあるほど、その人種を構成する個人が互いに似通っているからだ。しかし個人的差異がなければ、全体は受動的になり、みんな同じような行動をし、個々に反応することが不可能になる。そしてその結果、全員が軽信にはしる。それこそ、最もおぞましい計算や企ての温床である。
レイシズム」や「ナショナリズム」や「歴史修正主義」と「弱者」を巡っては、例えばhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050618 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060709/1152468102 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080131/1201781124 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081213/1229142951なども参照のこと。 
ヴァレリー――知性と感性の相剋 (岩波新書)

ヴァレリー――知性と感性の相剋 (岩波新書)

ヴァレリー (Century Books―人と思想)

ヴァレリー (Century Books―人と思想)

ヴァレリーは1941年にアンリ・ベルクソンへの弔辞を読んでいる。そのベルクソンは晩年(ユダヤ教から)カトリックへの改宗を真剣に考えていた。しかし終に改宗はしなかった。その理由は猖獗をきわめる反ユダヤ主義への抵抗、カトリックに改宗してしまうのは同胞たるユダヤ人を見捨てることになるのではないかという危惧であったという。とはいっても、ベルクソンは自らの死の床にカトリックの神父を呼んだとはいう(河野与一「ベルクソンの洗礼」in 『学問の曲り角』、pp.42-44)。
新編 学問の曲り角 (岩波文庫)

新編 学問の曲り角 (岩波文庫)

*1:ドレフュス事件」については、例えば工藤庸子『宗教vs.国家』pp.163-168など。

宗教VS.国家 (講談社現代新書)

宗教VS.国家 (講談社現代新書)

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110724/1311524158

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120407/1333827878

*3:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120427/1335557122

*4:恒川氏はMichel Jarretyの伝記本から孫引きしているので、以下の引用は曾孫、ヴァレリーのオリジナルのテクストから辿れば玄孫ということになる。

*5:これについては「地中海の感興」も参照されるべきだろう。