「清水の舞台」或いは見る前に跳べ?

http://blog.tatsuru.com/2009/08/18_1001.php


内田樹氏がレヴィ=ストロースの『野生の思考』にいう「ブリコラージュ」の話に引きつけて、


真に危機的な状況というのは、「どうふるまっていいか」についての実定的な指針が示されない状況のことである。
けれども、それを生き延びなければならない。
そのためには、「清水の舞台から飛び降りる」ような決断をしなければならないのだが、あんなところからむやみやたらに飛び降りたらもちろん首の骨を折って死んでしまう。
「清水の舞台から飛び降りる」ことができるためには、「セーフティネットが張ってある場所」めざして飛び降りることができなければならない。
もちろん、舞台の上からはセーフティネットは見えない。
見えないけれど、見当をつけて「このへん」と飛び降りることのできる人間だけが、生き延びることができる。
針の穴ほどの生き延びるチャンスを「先駆的に知っている」ことがどれほど死活的であるか、私たちはあまりに豊かで安全な社会に暮らしているために、すっかり忘れてしまっている。
けれども、そのような能力はたしかに私たち全員に潜在している。それを開発する努力をしているかいないか、開発のためのメソッドを知っているかいないか、その違いがあるだけである。
私たちの時代の子どもたちが学ぶ力を失っているのは、彼らの「先駆的に知る力」が破壊され尽くしたからである。
「学び」は、それを学ぶことの意味や実用性について何も知らない状態で、それにもかかわらず「これを学ぶことが、いずれ私が生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろう」と先駆的に確信することから始まる。
学び始める前の段階で、学び終えたときに得られる知識や技術やそれがもたらす利得についての一覧的な情報開示を要求する子どもたち(「それを勉強すると、どんないいことがあるんですか?」と訊く「賢い消費者」的な子どもたち)は、「先駆的な知」というものがあることを知らない。
彼らは「計画に基づいて」学ぶことを求めている。
自分が実現すべき目的のために有用な知識や情報だけを獲得し、それとは関係のないものには見向きもしない。
おそらく本人はきわめて効率の良い、費用対効果の高い学び方をしていると思っているのだろう。
だが、あらかじめ下絵を描いた計画に基づいて学ぼうとするものは、「先駆的に知る」力を自分自身の手で殺していることに気づいていない。
「先駆的に知る力」とはまさしく「生きる力」のことである。それを殺すことは緩慢な自殺に他ならない。
と書いている。オチは内田氏定番ともいえる教育批判*1となっている。それは大筋では正しいことなのだろうけど、それはさておき、「清水の舞台」の比喩が導入されることで、ここでレヴィ=ストロースは対立する筈のサルトル(の謂う「投企(projet)」)に接近していないだろうか。
野生の思考

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LA Pensee Sauvage

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The Savage Mind (Nature of Human Society)

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