ぱっぱぱらりあ

http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090813/1250130867


「現代文」の授業は何のためにあるのか。それは事実認識的な問いなのか、それとも規範的な問いなのか。What is or what should be? 前者であれば、文部省の学習指導要領とかを見て下さいということになる。後者については、最後にちょっと言及してみたいとは念う。
さて、


川端康成とか夏目漱石とか、文豪と呼ばれるような人たちの作品は、よく国語の教科書に登場する。そして俺が20年以上前に受けた国語の教育では「このとき登場人物はなにを考えていましたか」というかたちで設問があって、先生がなんか黒板に書いて教えてくれたりする。当時の俺は「なんでそんなことをする必要があるのか」がそもそもわからなかった。

 こうした経験はおそらく多くの人に共有されていると思う。俺が当時よく思っていたのは「その正解ってだれが言ったんだよ。登場人物に聞いてきたのか?」ということだった。俺はいまでも、小説でもマンガでも音楽でもそうだが「だれがそれを作ったのか」ということに対する興味がかなり薄い(例外的にこだわったのは、麻枝、久弥くらい)。なぜならそれは本のかたちで俺の前に出現したのであり、その本を読むということは、書かれているだろう物語を追体験することで消費することでしかないからだ。だから、極論すれば作者はいないほうがいい。

 もし「このとき登場人物はなにを考えていましたか」という設問があったのなら、俺にとってその答えは「絶対に」だ、本のなかにしか書かれていない。正確には描写された物語のなかに登場するその「人間」を把握することでしか正解に到達できない。

 そして到達した正解とやらは人によって違う。なぜなら「おまえは本当はなにを思っているのだ」という問いに答えられる人はそう多くないからだ。むしろその問いは最終的には常に「おまえはなぜ存在しているのか」「おまえは本当に人間なのか」というような、いくつかの根本的な疑問に還元されてしまう。つまり「イティハーサ」で言うところの「それを問うと気のふれる問い」ということだ。仮に正解のようなものが存在するとして、それは常に問いかける人と問いかけられる人のあいだに存在するだれにも解を導き出せない関数のようなものだ。ここには「正解のようなもの」は存在しても、正解そのものは存在しない。むしろ、存在してはならない。人はそのときにはおそらく「いまこの瞬間」から「次の瞬間」へと断絶を経験せず連続的に変化していく時間を生きる存在であることをやめてしまうからだ。

先ず、「このとき登場人物はなにを考えていましたか」というような設問に多くの人が正解してしまうということに驚かなければならない。それはどうしてか。多分、「描写された物語のなかに登場するその「人間」を把握することでしか正解に到達できない」という問題ではないのだ。究極的にはそんなの常識と答えるしかない。いきなりそんなの常識とか言ってしまうと、あまりにアレなので、その間の理路を大まかに提示してみる。先ず、「このとき登場人物」が「考えて」いたことというのは、一先ずはそのテクストと同時代的な他の諸テクストに回付される*1。かくかくしかじかの描写によってかくかくしかじかの心理状態を指示するというのは、同時代のテクストにおける約束事(convention)である。さらに、それは同時代(とは言っても、厳密な細い同時性ではなく、「現代文」の「現代」という言葉が指し示しているであろう、かなり太くて曖昧な同時代)に生きて、日本語で思考やらコミュニケーションをしているであろう私たちが他者の言葉や動作から内面を推測している仕方に回付される*2。そのような私たちが他者の言葉や動作から内面を推測している仕方を常識(commonsense)と呼んでも差し支えないだろう。作家たちも読者が自分と同じように他者の言葉や動作から内面を推測していると思い込み、読者たちも作家が自分と同じように他者の言葉や動作から内面を推測していると思い込む。だから、「このとき登場人物はなにを考えていましたか」というような設問に多くの人が正解してしまい、多くの人は喜び、一部の人は俺って凡庸?と落胆する。国語の授業のことなのだけれど、これは文学的或いは言語学的な問題というよりも、(現象学的)社会学的な問題なのだ。どうして正解してしまうのかを改めて問うこと、それは自然的態度の構成的現象学(constitutive phenomenology of natural attitude)*3の一環をなすとも言える。
ところで、この方は「俺には「正解」があること以上に、いくら文章を読めていたとしても、そもそも登場人物たちがなにを問題として生きているのか、なぜそんなことで悩むのかが理解できなかった」という。実は「現代」とか常識とかいっても、それは決して均質的な世界ではないということは常識的に理解されるだろう。無数のサブカルチャー*4が入り組んだ世界。現在ヴィトゲンシュタインによる本は黒田亘編『ウィトゲンシュタイン・セレクション』(平凡社ライブラリー)というヴィトゲンシュタイン語録しかないので、あまり詳しいことは言えないのだが、どなたかヴィトゲンシュタインを援用して、〈異なった生活形式〉の衝突と理解不能性みたいなノリで論じてくれないものかしら。
ウィトゲンシュタイン セレクション  平凡社ライブラリー

ウィトゲンシュタイン セレクション 平凡社ライブラリー


http://kd1.blog103.fc2.com/blog-entry-263.html


さて、あかさかあきおという方が引いている、井上靖しろばんば』をネタにした北海道の高校入試問題は、「心情がどう描写されているか」という問題とは関係ないと思う。それは端的に「そのこと」という指示詞を含むフレーズが何を指示しているのかを問う問題。残念ながら、「その正解ってだれが言ったんだよ。登場人物に聞いてきたのか?」という疑問への答えにはなっていない。
In order to what 「現代文」education should be?
それはその授業を受けなければあまり接触する機会がないであろう様々な日本語のエクリチュールに遭遇させることだろう。様々な日本語を知ること。それはそれらに纏わる様々な人間を知ることに繋がるだろうし、そこで使われている様々な言語的戦略や戦術を理解することは、私たちが日本語を使って、他人を説得したり、騙したり、恐喝したり、自己主張をしたりする仕方をマスターすることにも繋がるだろう。これが政治においては民主制、経済においては市場経済を採用する社会において致命的に重要なスキルであることは論を俟たないだろう。様々な日本語を知るということに関しては、以前に述べたように小説というメディアは特権的なところがある *5


「漫画を読んだことのない人に、いきなり漫画を読ませても、読み方がわからないように、「その作品を面白いと思うかどうか」ではなく、「作品の読み方」を教えるのが、文学的文章を教材として扱う目的である」*6という意見あり。「読み方」といっても、それは(上で述べたように)同時代の常識に回付される。ただ、時にはその常識に逆らっても、意識的に読むということを職業的に行っている人たちがいる。批評家というのはそういう人たちである。さらにいえば、批評家の読み方が常識に何時の間にか紛れ込んでいるという可能性もあるし、或る特定の1つの読み方が規範的に強制されるということもあるだろう。「現代文」教育が意識的・反省的な読みであるなら、批評理論のお勉強は不可欠なものになるのではないかと思う。
批評理論についての本としては、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』をネタにした廣野由美子『批評理論入門』をマークしておく。また、20年くらい前に、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』をネタにした川口喬一『小説の解釈戦略』というのがあった。今思ったのだが、どちらも英国の小説をネタにした英文学者の著書。日本のテクストをネタにした批評理論入門というのはないのか。

フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1))

フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1))

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)

小説の解釈戦略(ゲーム)―『嵐が丘』を読む (Fukutake Books)

小説の解釈戦略(ゲーム)―『嵐が丘』を読む (Fukutake Books)