他者の構成など(メモ)

承前*1

ブリタニカ草稿―現象学入門 (1980年)

ブリタニカ草稿―現象学入門 (1980年)

デカルト的省察 (岩波文庫)

デカルト的省察 (岩波文庫)

他者の構成という問題は、フッサールにとって『デカルト省察』でいきなり出てきた問題系なのではなく、1920年代のうちから思考され続けていた問題でもあった。1925〜1928年に書かれた『ブリタニカ草稿』(田原八郎訳、せりか書房)から少し抜き書き;


経験認識一般は、原的な経験、すなわち知覚とそれから導かれる根源的に現前化する諸変化にもとづいている。根源的な直観的事例なくしては根源的な普遍化、すなわち概念形成はあり得ない。すべての心理学的な根本概念――他のあらゆる心理学的諸概念に先立つ、あらゆる心理学の究極の理論的要素――は、心理的なものそのものの根源的直観のうちから汲み取られるものでなければならない。このような根本概念に互いに基礎づけあう三つの段階がある。すなわち自己経験と間主観的な経験と共同体そのものの経験である。自己経験には、それ自身根源性にしたがってひきおこされ、自己知覚とそれの諸変化(自己想起。自己想像など)の形成において成就される。すなわちそれは、心理学者に対して、彼の独自の(現在、過去などの)心理にのみ関する根源的な心理学的直観を与えるのである。他者の〈内面性〉に関する各々の間主観的な経験の意味のうちには明らかに次のことが存している。すなわち、他者の内面性は私自身のそれの類比的な変容であり、したがってそれは、個別的な心として同じ根本概念、すなわち根源的に私の自己経験のうちから汲み取られた根本概念のもとにのみ存立することができるということ、そして、新しい根本概念は、自己経験及び他者経験Fremderfahrungにおいて基礎づけられる経験、人間的共同体と共同的生命*2、すなわちつねに自己経験の根本概念を前提する諸概念に関する経験を与えるものであるということ、このことである。
さて、さしあたり自己経験を、すなわち現実的及び可能的な自己経験を根源的に直観へもたらすものは何かと問われるならば、そこにデカルトの古典的な公式であるエゴ・コギトが与えられることになる。この公式は、彼を超越論的哲学的に規定するあらゆる関心が排去された場合にのみ可能な解答である。換言すれば、我々は自我すなわち意識と意識されたものそのものに立ち至るに他ならないのである。心理学的なものは、純粋にはいわゆる自我的な固有性、つまり意識生命とかかる生命における自我としての存在に他ならない。純粋心理学的な見方が人間的共同体の考察のうちに固定されることによって、純粋な個別的主観(心)を超えて、それを純粋心理学的に結合する間主観性の意識のあり方が呈示される。そして、かかる意識のあり方のもとに〈社会的諸行為〉(他者に向かうこと、他者と申しあわせること、他者の意志を支配することなど)及びそれに関係することであるが、いろいろな段階の人間的な共同体と純粋の諸個人との持続的な相互人格的な結合がみられるのである。(「第一草稿」、pp.16-18)

(前略)移入Einfuhrungの現象学、すなわち、私の心の諸現象の綜合を整合的に確証しつつ通覧し、次に〈他の主観性〉を首尾一貫して確証しつつ指示することができる現象学は、現象学的還元を拡大して純粋な間主観性への還元を導くことになる。ここに、完全な形での純粋心理学的現象学として、純粋心理学的に構成された共同体、すなわち、そのなかにあって間主観的にもつれあった諸行為(共同体の諸行為)が〈客観的〉世界(各人に対してある世界)を〈客観的〉自然、文化世界及び〈客観的に〉存在する諸々の共同体として構成するような共同体に関する教説が展開することになる。(「第一草稿」、p.24)

心的生命に達するには、自己経験によるのみではなく、また他者の経験にもよらなければならない。このような新しい経験の源泉は、それが〈自己〉と〈他者〉との区別及び共同生命の固有性を我々すべての意識に妥当するように呈示するものである。そして同時に、それが経験として基礎づけられるものである限りにおいて、自己経験と同種のもののみではなく、また新しい経験をも呈示するものである。それゆえにまた、共同生命を現象学的に、それに属するあらゆる志向性に関して理解できるようにするという課題が生ずる。(「最終草案」、p.85)

(前略)現象学的還元という方法的形態における現象学的経験は、それぞれの充分に基礎づけられた心理学的な学という意味において、唯一の真正の〈内的経験〉である。かかる現象学的経験の固有の本質のうちに、明らかに、純粋性を方法的に維持しつつ無限に進展せしめられるということの可能性が存している。現象学的方法は、自己経験から他者の経験へと移行せしめられる。そして、その限りにおいて、現前している他者の生命においてそれに相応する括弧入れと描写とが、それらの主観的本性(〈ノエシス〉及び〈ノエマ〉)における現出作用と現出者に関して遂行されることになる。更に、共同経験において経験される共同体が単に心的に個別化された志向的領野にのみではなく、むしろ現象学的純粋性のうちにある間主観的な、これらの個別化された領野を結合する共同生命の統一へと還元される(間主観的還元)。ここに、〈内的経験〉に関する真正の心理学的概念の完全な拡大がみられることになる。(「最終草案」、pp.88-89)
さて、『ブリタニカ草稿』は私が最初に読んだフッサールのテクストである。百科事典の項目をフッサール自ら書いているのだからわかりやすいんじゃないかと思ったのだ。しかも、「現象学入門」という副題まで付いている。しかし、その期待は読み始めて直ぐに裏切られた。『ブリタニカ』のプロジェクトは最初ハイデガーとの共同執筆ということで開始されたが、フッサールハイデガーの執筆部分をボツにし、最終的にはフッサールの単独執筆ということになった。ということで、フッサールハイデガーの対立と訣別の契機になったという思想史的な意味もある。しかし、田原八郎氏の訳註や解説はこの問題を完全にスルーしている*3。結局、この問題の存在を知ったのは、この次に読んだ木田元先生の岩波新書現象学』においてであった*4
現象学 (岩波新書 青版 C-11)

現象学 (岩波新書 青版 C-11)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090727/1248714718

*2:「生命」の原語はLebenなのだろうけど、「生命」という訳語はうざい。

*3:谷徹先生による新訳ではどうなのか。

*4:また、田島節夫『フッサール』、p.78を参照。

フッサール (講談社学術文庫)

フッサール (講談社学術文庫)