- 作者: レーヴィット,熊野純彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/10/16
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カール・レーヴィット『共同存在の現象学』*1「序言」から少し抜き書き。
熊野純彦氏の訳註;
分析のとりあえずの成果として示すことができるのは、人間的な固体が「ペルソナ」という存在のしかたを共有する個体であり、本質的に、共に在る世界に由来する一定の「役割」をおびて現実存在していることである(たとえば息子つまり両親の息子として、夫つまり妻の夫として、父つまり子どもたちの父として、ということである。さらにまた学生つまり教師の学生として、講師つまりありうべき聴講生にとっての講師として、著者つまりありうべき読者に対する著者として、といったことでもある)。いいかえれば、総じて根本的には、対応する他者たちによってじぶん自身として現実存在するということだ。形式的に定式化するなら、〈きみ〉にとっての〈私〉として、つまりある可能な二人称に対する一「人称」である個体として、したがって共に在る人間として−−この原理的な「役割」によって−−規定されていることになる。こうした点を顧慮するなら、「世界」もすでに第一次的に「共に在る世界」を意味しているのである。(pp.16-17)
レーヴィットによる原註からの抜き書き。「共同世界」を巡って;
この段落の第一文で、「共に在る世界に由来する」と訳したのはmitweltich. 以下ではおおむね「共同世界的」と訳す。「共に在る世界」はMitweltで、以下ではたいていは「共同世界」と訳しておく。「共に在る人間」はmitmensch.(p.406)
以下「共同世界」のもとで理解されるのは、共通の配慮(Besorgen)において他者たちと共に分かちもたれているかぎりでの「世界」(『存在と時間』一一八頁参照)ではなく、共に在る人間たちそのものである。より正確にいえば、共同相互存在としての世界内存在がそれである。また、そうした世界内存在は、「そのつど固有の」現存在(Dasein)が共に在ること(Mitsein)から、あるいは「それぞれ固有の」他者の現存在が共に現に在ること(Mitdasein)から、かかわりを介することで打ちたてられるものではない。世界内存在は、根源的な共同相互存在として理解されなければならない。そこでは一者にとってつねに他者が問題となり、他者と同時に一者自身が問題となるのである。配慮によって媒介されることとなく、「目的のない相互的存在」(同書、一一節以下、一七節および四〇節参照)において一者が他者とむすびあわされるのは、ただ、他者が他の自己としてでも他のひと(Alius)としてでもなく、いわゆる「他者alter」あるいは「第二の者secundus」として、私自身の他者として理解される場合にかぎられる。こうした他者、しかもこの「他者」だけが、固有な現存在のまさしく「もうひとつの面」であり、そうした根源的な相互性によって、一面的に構成された志向性にもとづく観念論を、その出発点において堰きとめる。そのように理解された他者は、なにほどかは(一人称の)「世界」と「同一視」されうるし、またそうされなければならない。これに対して、三人称の他者たちのすべては、事実たいてい、たんに「もまた」「共に」現に存在する現存在として、周囲に在る世界というかたちで配慮された*2、共に在る−世界から出会われるにすぎない。(pp.17-18)
- 作者: マルティン・ハイデガー,Martin Heidegger,桑木務
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- 作者: マルティン・ハイデガー,Martin Heidegger,桑木務
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この本に興味が引かれるのは、アルフレート・シュッツのAufbauに数年先立って、MitweltやUmweltに関わる議論が行われていることだろう。勿論、ここでMitweltやUmweltに与えられた意味はシュッツが与えた意味とは違うのだが。とはいっても、最後に引用した「エートス」についてのパッセージから、シュッツの読者ならばだれでも一次的構成と二次的構成の区別を思い出すのではないか。また、レーヴィットは
人間的生の関係がふくむ構造は、人間がたがいにふるまうことによってかたちづくられ、そのふるまいは人間の根本的−態度、すなわち一箇の「エートス」をふくんでいる。エートスとは倫理学の根源的な主題であり、エートスがエートスとして妥当するにいたるのは、人間が互いにふるまうこと、つまり共に在る人間として共に在る人間に対してふるまうことによってのみである。人間のエートスによって(中略)人間の生の関係にぞくする意味と心情とが規定される。人間を人間として、したがって同時にまた共に在る人間として規定するこのようなエートスを、いっさいの哲学はそなえている。(中略)哲学が使用する概念的な規定は−−それが人間的現存在にかかわるかぎり、さらにまた人間的現存在を超えでようとする場合であっても−−純粋に概念的な本性を有するものではなく、むしろ「人間の規定」についての一定の概念を前提し、それに表現を与えようとする。(pp.20-21)
と書いているが、ここからも、シュッツがウェーバー社会理論の現象学的批判を志した動機に近しいものを感じる。
そうした(だれか或る者となにか或るもの、一者と他者、二人称の他者と三人称の他者、つまり「他者alter」としての他者と「他のひとalius」としての他者、相互、関係、交互性等々といった)基礎的要素を、倫理学、人間学、存在論および論理学は、たいていの場合なにか自明なことがらとして見すごしている。このために、現実に問うにあたいすることがらを覆いかくす疑似問題が生じるのである。(p.19)
- 作者: アルフレッド・シュッツ,佐藤嘉一
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