他者理解と自己理解(ディルタイ)

承前*1

共同存在の現象学 (岩波文庫)

共同存在の現象学 (岩波文庫)

カール・レーヴィット『共同存在の現象学』II「共同相互存在の構造分析」第一部「共同世界と「世界」ならびに「周囲世界」との関係」第4節「「世界」と「生」が共同世界を意味するという指示はディルタイが確証している」の続き。
「私の自己了解と他者の了解が相互に依存している」ということ(p.80);


私は、じぶん自身が体験可能なあり方から他者を理解する(二五九頁*2)。〔一方では〕「理解とは〈きみ〉のうちに〈私〉を再発見することである」(一九一頁)――他方で私は、他者を理解することにおいて、私に固有な生の可能性とその了解を同時に展開する。この両者はともに、ある共通性あるいは共属性を、つまり共通の教養、共感、義務等々を前提とすることによってのみ可能なのである(一四一頁)。ことばの意義をたんに知っていることさえ、すでにそうした共通性を、すなわち言語共同体を前提し(二〇九頁)、他面では互いに共に在ること(mit ein ander Sein)から共通性がかたちづくられる。このように互いに(gegenseitich)理解しあって共に生きること(zusammen Leben)によってはじめて、そのつど固有な生の経験に、現実的な「生の経験」という性格が与えられることになるだろう(一三二頁)。(pp.80-81)
「客観的精神」を巡って;

ディルタイは、諸個人に現実的あるいは可能的に共通するものが、歴史的に客観化したありかたを「客観的精神」と呼ぶ(二〇八頁)。客観的精神の領域は、生活様式、交通の諸形態から哲学へとおよぶ。客観的精神は、幼年期から人間を本質的に規定しているのである。客観的精神とは、他の人格とその生の外化との了解がそのうちで遂行される媒体である。(略)他方で私は、世界を理解するしかたを共同相互存在にもとづいて習得するばかりではない。或るものについて自身が獲得した了解をも、他者がそれをどのように理解するかという、そのしかたと様式によって確認するのである。(略)じぶんに固有の生と体験が、他の人格を了解することで拡張され訂正され、他方ではまた、他の人格が固有の体験を介して理解される(一四五頁)。(後略)(pp.81-82)
「自己反省(Selbstbesinnung)の哲学」としてのディルタイ哲学;

(前略)自己反省のもとにディルタイが理解するのは、自己へと個別化された現存在が、じぶん−自身−顕わに−なろうと−欲すること(Sich-selbst-offenbar-wollen)ではまったくなく――自己反省を利己的に追究したところに、ディルタイニーチェの大きなあやまりを見ている(二五〇頁および二七九頁、また、第四巻、五二八頁以下)――歴史的な自己反省である。とはいえディルタイは、歴史的人間の自己反省に対して「個別的人間」のそれを対置する。そこからあきらかになるのは、歴史的存在というディルタイの概念が、共同相互存在の概念と根源的な連関のうちに置かれていることである。(略)人間は「もはや探究不能な自己の深部にいたるまで」(二七八頁)歴史的な存在である。このしだいがディルタイにとって意味しているのは、個別者という有限的な実存が時間的に規定されていることではない。それぞれの個人が同−時代的に規定されているということである。ディルタイは、ニーチェはその自己反省のしかたによって、人間が歴史的な存在であることを見あやまったという。(pp.82-83)
さらに、ゲーテの『タッソ』からの引用(p.83)

ここで、備忘のために、ディルタイに関して、2つのテクストを提示しておく。
丸山高司「表現的存在――歴史的生の存在論――」(in 新田義弘ほか編『思想としての20世紀』[岩波講座 現代思想1]、pp.139-185、1993)

岩波講座 現代思想〈1〉思想としての20世紀

岩波講座 現代思想〈1〉思想としての20世紀

大石学「〈生の哲学〉の自己意識論――ヨルクとディルタイにみられるその基本構想――」(in 新田義弘、河本英夫編『自己意識の現象学*3世界思想社、pp.92-106、2005)
自己意識の現象学―生命と知をめぐって (SEKAISHISO SEMINAR)

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