「やれやれ」?

http://d.hatena.ne.jp/usukeimada/20090720/1248092002


たしかに彼がやったことというのは悪質なセクハラだったといえるだろう。それは彼自身も自覚している筈*1。それにしても、当の14歳の従妹の対応というのは全く素晴らしい。セクハラに対しては、四の五の言わせないで(言わないで)ビンタ一発。但し、ビンタを食らうことで欲望がさらに点火されるということも少なからずあるが。XTCの”Grass”みたいに。というか、男性の70%くらいは彼女を押し倒そうとしてビンタを食らったという甘酸っぱい思い出を持っているんじゃないかと勝手に思ってはいるのだが、これは全く文脈が違う。

Skylarking

Skylarking

話を戻すと、彼のアレな態度というのは、実はけっこう世間で共有されているものなのではないかとも思う。例えば、少し前に、伊田広行の言説を巡って、

マッチョな男権主義者も(思考の構造が単純な)〈フェミニスト〉も、ファッション、特に女性のファッションに、反射的にセクシュアルな意味を読み取ってしまい、意味をそこに還元してしまうという心性を共有しているとは言えそうだ。勿論、ファッションがセクシュアルな意味を含みうることはたしかであり、そのような仕掛けとして用いられることも屡々ある。しかし、そのようなことが全く意識されていないということも少なからずある。理論的にいえば、ファッションはセクシュアルな意味を(誰かによって)読み取られることによってのみ、セクシュアルなサインとして機能するといえる。痴漢やセクハラなどのトラブルはそのような意味解釈のずれによって惹き起こされうるのだが、その場合の責任がそのように解釈した側にあるということはいうまでもない。2つのタイプの言説に戻れば、これらの罪悪は、先ず意味解釈を勝手に切り縮めて、それ以外の解釈が生起することを、さらには〈衣〉を通じての表現の可能性を扼殺してしまうということにありそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090609/1244553780
と書いたのだが、それを共有している。ただ、その問題性も自覚しているということは認めなければならないとは思う。
ところで、muffdiving氏の非難*2。それはそうなんだけれど、相手はあらゆる点において未熟者なんだから、叱りつけるにせよ、もっとやさしさをもってしてください(と私がお願いする義理はない)。
曰く、

 ファッションに気を使うのは、別に異性を意識した視点だけじゃなくて、自分が属してる仲間を識別する、仲間の連帯意識を高める、他者に対する闘争モードだったり、いろんな動機があるけどね。

 ヤンキー系のファッションなんか、モロにそういうとこがあるし。

これも正しい。さらにいえば、中学生頃に「ファッションに気を使う」ことというのは、〈自我〉の確立と関係がある。鷲田清一先生(『ちぐはぐな身体』)によれば、子供服というのは「制服」である*3。子どもが着ているのは、親などの身近な大人が投影した〈らしさ〉というイメージであって、それを打破しなければ(そこから逸脱しなければ)、自らのテイストを確立することはできない。「ファッションに気を使う」ということは屡々(文字通りの意味の)「制服」からの逸脱(に対する改造)から始まるわけだ。
ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

*1:しかし、非難の渦に引き摺られてか、その応答はアレなものになってしまっている。http://d.hatena.ne.jp/usukeimada/20090722/1248267776

*2:http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20090722/1248363807

*3:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060312/1142190612