ちょっとずれてるような

http://d.hatena.ne.jp/usukeimada/20090907/1252328407


坂本龍一が出た『爆笑問題のニッポンの教養*1についての話。何だか深刻且つ高尚なことを考えているようで、それに比べたら、中華料理屋のボサ・ノヴァの話をいちばん印象に残ったものとしている俺は恥ずかしくなってくる。「俗」でどうもすみません。ところで、あの番組で坂本龍一が語っていたことというのは、エリック・サティ以降の所謂現代音楽が提起した問題の模範的な解説みたいなもので、要は、「高尚」から「俗」まで、クラシックのマエストロから演歌の先生までが共有している共通の基盤を相対化すること、もっと具体的な層について言えば、楽音と楽音以外の音、或いは歌うことと(普通に)しゃべることの区別を相対化するということで、「高尚」か「俗」かということではなく、「高尚」と「俗」がその上で判定されつつ共存する基盤が相対化に晒されているということなのだ。坂本龍一が提示した古楽にしてもアイヌの民俗音楽にしても、所謂アカデミックな正統派の音楽においては、ともに周縁的なものだということは注意しなければならない。また、「13世紀の音楽だとかアイヌの音楽だとか、おそらく太田も田中も(もちろん僕も)聴いたことのない音楽のオンパレード」というけれど、それは偶々この人が聴いたことがない(或いはないふりをしている)だけであって、実際に古楽や民俗音楽のファンはそれなりにいるわけで、俺だって(アイヌ音楽は持っていないけれど)古楽や民俗音楽のディスクは何枚か持っている。所謂ポストモダン相対主義からすれば、それだって多様に可能である諸々の趣味の1つという仕方で相対化されてしまう。問題は、古楽にしても民俗音楽にしても、それらが貴族の社交とか宗教儀礼とか農作業等々のそもそもの音楽の文脈から引き剥がされて、(近代的な意味での)音楽として享受されてしまうことによって、相対化された筈の音楽が再度脱相対化されてしまうということにある。ここで、例えば映画音楽というのは重要な意味を持ってくるというのはわかりやすい話だろう。この先の話はあまり考えていない。
「高尚」か「俗」かということだと、三浦雅士(「身体の優しさ−−ピナ、マース、マイケル」)*2によれば、マース・カニングハム*3ピナ・バウシュ*4通俗的な楽曲を使用することを嫌悪していたという。三浦氏は、それを(ジョン・ケージも含む)米国のアヴァンギャルドにおける「歴史性」の欠如に結び付けるのだが(p.5)。