「個人」の不在

承前*1

雨宮処凛*2「「なぜ、セクハラはいけないのか」という本質が理解されてないっぽいという大問題。」https://www.huffingtonpost.jp/karin-amamiya/sexual-harassment-20180426_a_23420453/


少し抜書き。


財務省の福田事務次官が、セクハラを認めないまま辞任した。

 問題発覚当初、財務省はよりによって被害者に名乗り出ろなどと言い出して大きな顰蹙を買ったが、このように被害者を恫喝するような最悪の対処法を見ると、セクハラが力関係の問題であることがまったく理解されていないということがよくわかる。そんなことに悶々としていたところ、朝日新聞4月17日夕刊「オトナの保健室」で、田房永子さんが描いた漫画を読んだ。

 セクハラについての漫画で、田房さんは、セクハラをする人のことを「女のことは人間だと思ってない人」だと思っていたと書く。が、「こちらも人間なんです 人として扱ってください」と訴えるものの、反応は「? 大げさだなァ」というもの。そんな男性に対し、田房さんは「『人間扱い』する・されるの意味自体分かってない感じがする」と書くのだ。その次のコマには、男性の絵の上に浮かぶ「会社名」「立場」「学歴」「年齢」「男」「役職」などの言葉たち。そこで彼女はこう書いている。


 「実は彼ら自身が自分のことを 人間扱いしてないのではないだろうか」「性別とか年齢とかの『入れ物』に沿って生きる、それが人生だと思ってる人に注意しても通じない...」


この描写を読んで、長年の謎が鮮やかに解けた気がした。そうなのだ。私自身もセクハラなどについて、オジサン世代の人たちに嫌だと訴えたことがある。しかし、一部のオジサンは、本当に心の底から言葉が通じない。「自分より若い女」の訴えなどそもそも「動物の鳴き声」「川のせせらぎ」程度にしか感じておらず、意味のある言葉だと認識すらしていないっぽい。

 「傷つく」とか「本当にそういうことをされたくない・言われたくない」などと言ってもまったく理解されず、へらへら笑って「カタいこと言うなよ」なんて言葉で終わらされる。それがあまりにもナチュラルなので「本当にバカにされているんだな」と思っていたのだが、彼らにはそもそも「人間扱い」の意味がわかっていないのではないだろうか。


そんなことを考えて、ある人を思い出した。それは、団塊世代のある男性。私が子どもの頃から家族ぐるみの付き合いがある人で、親戚ではないが両親と長いかかわりがある。もうこの何年も会っていないがたまに実家に戻ると顔を合わせる人で、いつからか、私はその人のことを心の中で「合理性ロボット」と呼ぶようになっていた。子どもの頃は、おこづかいをくれる優しいオジサンだと思っていた。しかし、大人になるにつれ、違和感がどんどん大きくなっていった。とにかく行動や思考にまったく無駄がなく、合理性と効率と費用対効果のみで動いているのだ。

 仮にA氏とするが、まず、A氏は人間を肩書きでしか判断しない。例えば男性であれば、大卒でなきゃ価値がないと容赦なく切り捨てる。女性の場合は美人じゃなければ生きる価値がないというスタンス。一事が万事その調子で、自分が定めた基準に達しない人間は、当然のごとく人間扱いなどしない。また、行動も非常に合理的で、例えばみんなで食事に行こうということになり、誰かが「焼肉食べたい」と言い出して、「いいね、じゃあ焼肉行こう」ということになった瞬間、A氏は「合理性」を炸裂させる。その場にいた子どもたちが「わーい焼肉!」とはしゃいでいようが飛び跳ねていようがそんなことはお構い無しに「焼肉は服に匂いがつくから嫌だ」と言い張るのだ。それで子どもが泣こうが喚こうが関係ない。みんなの気持ちなんかより、「自分の服に焼肉臭がつかない」ことが何よりも大切なのだ。自分の合理性に従わない者を、瞬時に笑顔で射殺できるタイプなのである。


例えば私の周りには、ひきこもりや生きづらさをこじらせた人などが多い。そんな人たちに親についての話を聞く機会も多いのだが、彼ら、彼女らの親にはA氏のようなタイプがものすごく多いのだ。共通するのは、「子どもに数字しか求めない」という点。クラスで何番以内、学年で何番以内、テストで何点以上と要求は常に明確に数値化され、場合によっては「前年比◯%アップ」みたいな目標まで設定されている。そう、企業社会とまったく同じなのだ。が、企業の目的は営利活動だからそれでいいが、子育てにそれを持ち込むとどうなるか。企業では給料アップや出世などが「褒美」となるが、親子間でそれをやると「親の望む通りに成績を上げられたら愛情をやる」という形で「愛」が取引の道具にされてしまう。

 そんな中で育つと、「相手の言いなりになるなど、なんらかの条件を満たさないと/苦行に耐えて結果を出さないと愛してもらえない」ということが刷り込まれるので、当然子どもはマトモな自己肯定感など持てない。自分の存在を無条件に肯定されずに育てば、条件つきでなきゃ存在してはいけないという前提が常に付きまとうので生きづらさが緩和されることはなかなかない。その上、その手の親は「いい学校に行けない」「働けない」「稼げない」「結果を出せない」子に対しては容赦ないので断絶はより深まっていく。そんなことを考えるとA氏の子どもたちが心配になってくるが、やはりここまで書いたようなことを要求しまくった結果、ある時期からA氏が決して子どもの話をしない様子を見ると相当いろいろとあるのだろう。

哲学的な語彙を使えば、現実存在(実存)と本質存在の区別*3、また現実存在の本質存在への還元ということになるのだろう。 また、最近思うのだが、日本国憲法では戦争放棄(第九条)も象徴天皇制(第一条)も重要なのだろうけど、第十三条の「すべて国民は、個人として尊重される」というのが哲学的には最重要なのではないか*4

しかし私は、A氏は決してセクハラなどはしないと思う。なぜなら、合理的なので自らのマイナスになるようなことはしないからだ。社会的制裁を受けるからしない、キャリアを失う可能性があるから絶対にしない、「悪いこと」とされているからしない、コンプライアンスとかにうるさい世の中だからしない。そこには、「なぜ、セクハラをしてはいけないのか」という視点がすっぽり抜け落ちている。なぜ、セクハラやパワハラをしてはいけないのか、そこからそもそもわかっていないし考えようという気などない。当然、相手の気持ちなんて論外だ。

 財務省のセクハラ問題への対応は、これとまったく同じ構図に見える。だからこそ、相手の気持ちを一切無視するような「名乗り出ろ」なんて言葉が出るのだ。それにしても、なぜ、日本の企業社会や政治の世界に過剰適応してしまった一部男性がここまでナチュラルにブッ壊れているのかと思うと、それはやはり彼らも人間扱いされてこなかったからで、そう考えると問題の根深さに頭を抱えたくなってくる。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180422/1524324795

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080613/1213338134 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110403/1301804644 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120611/1339438869 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130617/1371461484 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20141025/1414208459 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20141230/1419908212 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170806/1501958274 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20171115/1510719628 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20171116/1510797334 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20171201/1512058279 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20171211/1513006221 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20171219/1513653670 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180304/1520165495

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060927/1159324955 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061029/1162091586 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070807/1186490802 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080106/1199634443 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081224/1230144140 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130617/1371437079 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140104/1388844590 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140216/1392566539 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140829/1409340359 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20141224/1419385448 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160106/1452053491 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170811/1502475039

*4:See 菅原潤『京都学派』、pp.242-243. Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180406/1523026263

京都学派 (講談社現代新書)

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