漫画家や映画作家にならなかったわけ

白岩玄「「マンガや映画の方がはるかに楽しい」……読書嫌いの小説家が本を好きになるまで」http://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2018041065631.html


白岩玄という人の文章は読んだことがなかった。「野ブタ」を「プロデュース」した人だったっけ? 読んだことがないどころか、「白岩」ではなく白石玄だと思っていたのだった。
曰く、


恥ずかしい話だけれど、ぼくは作家デビューから3年後の24歳になるまで、ほとんど小説を読んでいなかった。子どもの頃から特に本に親しみを持っていたわけではなく、あくまでも「文章を書くこと」が好きだったぼくにとって、小説を読むことは一切の娯楽をともなわない完全な勉強でしかなかったのだ。

 だからデビュー以後、編集者に「もっといろんな小説を読んだ方がいいよ」と言われても、その場限りの返事をしてごまかしていた。読書量が圧倒的に足りていないことは自分でも感じていたが、その頃は他人の書いた小説を読むのがどうしても苦痛だったのだ。読まなくてはならないことは重々承知していたけれど、なんだかんだ理由をつけて逃げ続けていた。

 でも、二作目がなかなか思うように書けなかったことで挫折して、これはマズいとようやく本を読むようになった。とはいえ、それまでほとんど読んでこなかった人間が、いきなり読書を習慣化するのは、なかなかハードルの高いものがある。運動嫌いの人がジョギングを始めてもすぐに辞めてしまうように、果たして好きではないことを続けられるのか、ぼく自身も不安があった。「本を読むのは面倒だし、マンガや映画の方がはるかに楽しい」と思う人たちの気持ちが、当時のぼくには痛いほどよくわかったのだ。

 だけど、そうも言っていられない。まずは本屋に行って、名前を聞いたことのある作家さんの本を片っ端から手に取っていった。

 言い方は悪いが、最初は本当に我慢でしかなかったと思う。しゃべるのが大好きなクソガキが、他人の話を聞く練習をしている姿を思い浮かべていただければいい。慣れないうちは10ページも進まないうちにイライラしてくるし、読みながらついつい他のことを考えてしまう。それでも、最低1カ月は続けないと意味がないと自分自身に言い聞かせ、毎日少しずつ読むことを習慣づけていった。

 そのうち、よほど興味を持てない本以外は、最後まで読み通せるようになってきた。本、特に小説を読むのは(ひょっとするとこれはぼくが書き手だからかもしれないが)文体から生まれる他人の呼吸のリズムに、自分の呼吸を合わせるようなところがある。そういうことが徐々に苦じゃなくなってきて、マンガばかりだった本棚に小説がずらりと並ぶようになってきた頃には、好きな作家も見つかった。

少し以前に、文学の「カラオケ化」(斎藤美奈子)ということが言われていたのだけど*1、そういうことというよりも、相互テクスト性(intertextuality)の内実の問題なのだろう。考えてみれば、(狭義の)言語或いは小説が(別の)小説を産み出すだけでなく、小説は「マンガ」や「映画」というテクストから産出されることもあるということ。小説から漫画や映画が産出されているように*2。問題は、じゃあ何故白石もとい白岩さんは漫画家や映画作家ではなく「小説家」になったのかということになるだろう。漫画の場合は言葉だけじゃなくて絵も描かなければいけない。映画の場合はスタッフやキャストという協働者が要るということだろうか。
ところで、「本、特に小説を読むのは(ひょっとするとこれはぼくが書き手だからかもしれないが)文体から生まれる他人の呼吸のリズムに、自分の呼吸を合わせるようなところがある」。漫画を読んだり映画を観たりすることもそうなのでは? カット割りや編集「から生まれる他人の呼吸のリズムに、自分の呼吸を合わせるようなところがある」。

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070120/1169274863 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070127/1169915568 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090711/1247338782

*2:これは、所謂映画化とかノヴェライゼーションということに限らない。