ノマドへ?

http://agora-web.jp/archives/625053.html(See also http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2009/06/post-7c1e.html


あの池田信夫*1が珍しくまっとうなことを言っている。曰く、


「日本人が極端にリスクをきらうのは農耕民族だからだ」といった説明がよくありますが、これは歴史的にはおかしい。網野善彦が明らかにしたように、「百姓」は農民のことではなく、漁民や商人や職人などを含む雑多な民衆のことです。彼の『無縁・公界・楽』にも書かれているように、「無縁」というのは農村のタコツボ的共同体から自由になることで、こうしたノマド(移動民)が農村を横断する公共的な空間(公界)を創造しました。公界は聖なる空間で、ここから神話や芸能が生まれたのです。農村も自給自足の共同体ではなく、縄文時代から地域間の交易があったことがわかっています。

しかし農村の外からやってくるノマドは忘れられ、古来から農民が日本社会の中心だったという農本主義史観が続いてきました。その影響は企業にも及んでおり、農民的な長期雇用の社員だけを企業のメンバーとみなす傾向が強い。日本経団連の御手洗会長は「終身雇用は日本の伝統だ」とのべていますが、驚いたことに彼のいう社員には臨時工は含まれていない。彼らを解雇したのは「外部から来ていた人が引き上げて行っただけ」なのです。

引用した前半部については、網野さんの議論を些か単純化しすぎだろうという感じはするけれど、そう間違ったことは言っていないだろう。後半部の「農本主義史観」の「影響」が「企業にも及んでおり」云々というのはちょっと判断を保留したい。というのは、村上泰亮佐藤誠三郎公文俊平の「イエ社会論」によれば、日本的組織のモデルとしてのイエは中世東国の武士団の組織に由来するからだ。ただ、東国武士団というのは武装農民なのだが*2。「農村も自給自足の共同体ではなく、縄文時代から地域間の交易があったことがわかっています」。「縄文時代」に「農村」はなかったでしょという突っ込みはともかくとして、かなり以前に日本人は農耕民族だと喚き続ける爺に向かって、まだ農耕が開始されていない縄文時代に既に黒曜石の交易が行われていたのだから日本では農業よりも商業の方が早かったんだよねとか言ったことがあるのだが、それもともかく、例えば高取正男(『日本的思考の原型』)によれば、一見すると閉鎖的な山村はそもそも自らを外に開かないと生きていくことができなかった。例えば、人間が生存のために摂取が不可欠な塩の問題と関わっているだろう。日本列島では殆ど岩塩は獲れず、塩は海水に依存していた。上杉謙信武田信玄に塩を送ったことが美談として伝えられるように、海から遠い山間部では塩の確保は深刻な問題であり、海辺の村との交易に依らざるをえなかった。
無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社選書)

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社選書)

池田氏の言説を参照している「カトラー」氏曰く、

日本の法人の99%、従業員数でも9割以上を占める中小企業やベンチャー企業においては、会社の存続さえ怪しい状況なのだから、終身雇用、正社員などという言葉自体が、日本の大多数の就労者にとっては既に意味のない絵空事になっている。にもかかわらず、大新聞やテレビマスコミでは、終身雇用、正社員の崩壊が、あたかも日本社会の大転換のようにして取り上げられるのは、メディアの側にも、大企業中心の産業・企業史観が抜きがたく存在しているからではないか。もっといえば、大新聞の記者たち自身が、終身雇用制のもとで庇護されているから、農本主義的な社会システムの崩壊があたかも大転換のように映っているだけだ。

人々が川の流れのように世界中を流動していく・・・そうした流動性のイメージを前提にしか、21世紀の社会のありようや企業経営というものを想定することは不可能になりつつある。既にわれわれは、ノマド化した世界のただ中に存在しているのであり、いまだに「正史」を担っていると思いこんでいる日本の大企業のサラリーマンやメディアが描いている現実の姿は、どこかお伽噺じみていて、明らかに未来への射程を失っている。
http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2009/06/post-7c1e.html

世界が「ノマド化」しているからこそ、反動的に、〈ノマド〉的な存在(例えば、〈不逞〉な外国人等々)に対する差別や排除が強化されているということには注意しなければならない。「カトラー」氏はリベラルな人だが、池田信夫氏は例えば〈非合法的〉に日本に入国した後に強制出国させられ、親子を引き裂かれて、おまけに田吾作なウヨに脅迫されたフィリピン人の件についてどう思っているのか。
あと、幾つかランダムに書き散らす。
ノマドへの差別は日本に限ったことではない。例えばヨーロッパにおける(政治的に正しくない言葉を使うが)ジプシー*3。勿論、どの場合でも差別は両義性を孕んでいる。定住民にとってノマドは禍々しいとともに魅惑的な力や技術を持つ両義的な存在であった。多分、日本におけるノマド的なものへの差別と憧れが織り合わさった最大の構築物は〈サンカ〉幻想であろう(Cf. 沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』)。
幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)

幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)

「カトラー」氏のコメント欄で;

蛇足ではありますが、徳川家康の祖先、松平家の初めも三河豪農の後家さんをこましてしまった、ノマドな放浪坊主だったらしいですから、日本のノマドの歴史も由緒正しい(?)ものです。

正民、流民という区別は、中央政権の方便にすぎません。実際正規社員の方が税金の搾取がしやすいですからね。

Posted by: Yute | 2009.06.08 at 07:30 AM

大名のノマド的起源については、故櫻井進氏*4の『江戸のノイズ』、また櫻井氏が参照している折口信夫「ごろつきの話」をマークしておく。いちばんわかりやすいのは蜂須賀小六では?
江戸のノイズ―監獄都市の光と闇 (NHKブックス)

江戸のノイズ―監獄都市の光と闇 (NHKブックス)

折口信夫全集 第3巻 古代研究 民俗学篇2 (中公文庫 S 4-3)

折口信夫全集 第3巻 古代研究 民俗学篇2 (中公文庫 S 4-3)


See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090312/1236788552

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070128/1169989586 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090108/1231386781 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090223/1235362566

*2:これに対して、職人としての武士、或いは悪党という系譜もあるわけで、「武士道協会」(http://www.bushido.or.jp/index.html See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090616/1245157140)にとって「武士」というのはどっちの系譜に属するのかというのは、大いに議論されてしかるべきだろう。

*3:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080906/1220662781

*4:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080318/1205811317