食と社会性(社交性)

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

松尾信明「グローバル化マクドナルド化・身体論――グローバル化のローカルな基礎としての身体――」『コロキウム』2、pp.120-136


この中で参照されているPasi Falkという人の「構築のプロセスとしての食」という概念*1が興味深いのでメモ;


フォークはいう。食することは、食料を消費する(溶解させる、使い果たす)という意味合いを持つが、同時にこれは生産、よりふさわしくは構築(construction)のプロセスなのでもある。すなわち、物理的から社会的なあらゆるレベルに関する生命を(再)生産、あるいは構築するということである。したがってわたしたちは、「物理的なタームにおける再生産という概念と、身体内の、人間と自然の間の、そして人間と人間との間の新陳代謝のさまざまな生命のプロセスあるいは異なったモードに他ならないことに、結局思い至る(end up)のである」と。食することは、消費することであり生産することでもあり、何よりも構築のプロセスであることが、フォークにより主張されている。(p.130)
ただ、松尾氏がこのフォークの所説を援用して、「社交」概念に通常の「社交」概念のほか、「食という生物的な、原的なレベルの要求を身体にもつということにおいて、人間は狭義/広義の他者と結合している=同じ位格にある」こと、「食する際に同時に、食する者と食される者としての、人間と広義の他者(自然、動物、さらには植物)との結合がみられる」こと(pp.130-131)を追加し、「社交」概念を拡張した上で、「「マクドナルド」を孤独に食する「ひとりのわびしい食事」であっても、あるいは「共同の食事」であっても、それが「構築のプロセスとしての食」そして「社交」であることに変わりはない」(p.131)と述べるのはどうかと思う。私たちが本源的に、世界や他者に対して開かれていること、またそのことによって基礎づけられる本源的な社会性(社会指向性)と所謂「社交」を一括りにすることは、発生論的な諸準位の混同であろうし、それによって何か面白いことが言えるという利得があるとも思えないのだ。
また、このテクストの前半で展開されている、「グローバル化」と「マクドナルド化」が対立するのかどうかという議論はひどくつまらなく、無意味であるように思えた。「グローバル化」と「マクドナルド化」はそもそも出自も文脈も射程も異にする議論だからだ。勿論、重なり合う局面はあるにせよ。
ここで再びリッツアの『マクドナルド化する社会』をマークしておく。
The McDonaldization of Society: An Investigation into the Changing Character of Contemporary Social Life (Pine Forge Press Publication)

The McDonaldization of Society: An Investigation into the Changing Character of Contemporary Social Life (Pine Forge Press Publication)

マクドナルド化する社会

マクドナルド化する社会

*1:Pasi Falk The Consuming Body, Sage, 1994