「不平等」のための「平等」?

承前*1

政治・社会論集―重要論文選

政治・社会論集―重要論文選

ラルフ・ダーレンドルフ『政治・社会論集 重要論文選』からのメモの続き。
「不平等、希望、進歩」(加藤秀治郎、吉田博司、田中康夫訳、pp.142-173)から;

近代社会は、できるだけ多くの人々にできるだけ多くのものを与えるという原理の上に立脚している。(略)社会はその成因のライフ・チャンスを増加させるべきであり、すべての人のライフ・チャンスは等しく重要である、という二つの前提は、憲法や政党綱領に書かれ、さらにはほとんどの人の持つ〈目に見えないイデオロギーのトランク〉の中に根づいている。各人のライフ・チャンスは等しく尊重されなければならない、という考えは、過去二世紀の間、社会的ダイナミズムの強力な動力源となってきたし、時には革命をもひきおこすほど強力であった。人々は多様であるがゆえに、また他人を犠牲にしたり、他人の慈悲によってではなく、自己の権利によって多様に存在できるようにするためにこそ、平等が望まれると考えられたのである。つまり、平等の目的は不平等・不同にあり、普遍的権利の目的は個々人の多様な生活にあるのである。
だが、革命にはそれ特有の疎外が伴う。つまり、革命の全過程が終わらないうちに、手段と目的が混同され、区別しがたくなることである。つまり、自由の手段として前提とされていた条件、すなわち平等を創出して、それが困難であればあるほど、本来の目的とされていた自由が疎遠になるのである。ここでの疎外のパラドックスはより一層、印象的である。つまり平等という観念が、決定を下す人々の行動と、それを批評する人々の精神とを支配するようになった分だけ、それだけ〈最大多数の最大ライフ・チャンス〉を唯一、可能たらしめているところの多様性を見失ってしまう事である。また、このようにして政治思想と行動が近視眼的になってくると、それだけ社会全体が硬直化し、〈肥沃な同じ大地に百花が咲き競う、色とりどりの世界〉を創り出せなくなるのである。なぜなら、各人があらゆる点で平等な社会は、現実的な希望に欠けており、それゆえ進歩に対するインセンティブ(誘因)のない社会だからである。(pp.143-144)
このテクストには最もラディカルだと思われる共産主義批判が見られるのだが(p.161)、それについては後日検討することにして、ここでは以下の平凡ではあるがリーズナブルな言明を引用することにする;

たいへん多くの人が、東欧を去り、西側に逃れて来ているが、東欧諸国の政府が「パラダイス」と宣伝しているような国から、逃げてくる人があるのは何故なのか。それは、いろいろな新聞を読み、休暇にはイタリアでも〔北欧の*2ラップランド地方でも好きな所へ行き、田舎での職を捨てて都市に出たり(あるいはその逆)、さまざまな政党から一つを選ぶといった、オプションが欲しいからである。(p.162)
また、

マルクスヘーゲル流の思考様式でもって、(プロレタリアートの側の)絶対的窮乏化の瞬間が(共産革命の)最大の必然性の瞬間でもあると主張しているが、実際マルクスはこの点でまず、確実に誤っていたと言わなければならない。極端な貧困は、闘争心を生むよりも、無気力を生むのである。革命的状況を革命に転化するのに必要な火花は希望なのである。それは一般的な意味では、もちろん成功への希望であり、個別的な意味では、それまで禁止されていた組織が突然、許可されたり、驚くほど賃金がよくなったり、税金が安くなったりする可能性が現実に存在することである。そして今や、こう論ずることができよう。つまり、革命的状況に火をつける火花とは、ある普遍的な力が極端な形で出てくる場合にすぎず、その力は漸進的な社会変動にあっても作用を及ぼすのである、と。そして、憤りやあらゆる潜在的欲望を行動にへ、さらには変革へと転化させるものは、〈これまでとは別の、新しい、より良いライフ・チャンス〉というヴィジョンなのである。逆に、希望を棄てた者は、事実上、自分をとりまく状況を受け入れてしまっているのであり、この意味で、希望なくして変革もないのである。(pp.164-165)
テクストの最後は、「今日、希望は、人間が〈同じように存在すること〉ではなく、〈いろいろ多様に存在すること〉から生じてくるのであり、自由は、平等ではなく不平等から生じてくるのである」と結ばれている(p.172)。