ネイションへの2つの「帰属」(メモ)

承前*1

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

阿部純一郎「市民権の空洞化と〈同化〉論争――国民の境界をめぐるダイナミクス――」(『コロキウム』2、pp.144-162、2006)の続き。第3節「蓄積される国民」(pp.152-156)。
先ず、Brubaker*2を踏まえて、「同化」の多義性について;


第一は、AとBの間の類似性(similarity)や親縁性(likeness)の増大という意味であり、この場合、そのプロセスや度合いに強調点が置かれる。この意味における同化は、「類似する」(自動詞的用法)プロセスを指したり、「類似させる」「類似したものとして扱う」(他動詞的用法)プロセスを指したりする。第二は、AとBの間の同一性(identity)の成立、あるいは一方から他方への「完全な吸収(complete absorption)」という意味であり、ここでの強調点はその最終状態に置かれる。単純にいえば、前者の同化が「程度の問題」であるのに対し、後者のそれは「二者択一の問題」である。(p.152)
前者の意味における「同化」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090505/1241462771も参照のこと。
ナショナリズムを「空間管理」の問題として思考するGhassan Hage(pp.152-156);

(前略)ナショナリズムは、単にナショナルな空間のイメージだけではなく、「空間の管理者」としての自己のイメージも前提している。なぜなら自分をナショナルな空間の管理者として想像しなければ、そもそも特定の集団を望ましいとか望ましくないとか判断する根拠(資格)が失われてしまうからである。その意味でナショナリズムには、ナショナルな空間に暮らしている自己というイメージだけでなく、「ネイションと一対一の特権的関係にある自己、そこに特権的に住まう自己のイメージ」が不可欠である(Hage [1998=2003:85])。ここで「特権的に住まう自己」という表現に注目すれば、その裏返しの関係にある第三のイメージも導かれてくる。つまりナショナリズムは、ナショナルな空間に特権的な仕方で住んでいない他者、すなわち管理される「客体」としての他者というイメージも前提している。ナショナルな空間でのこれら二種類の居住様式は、それぞれ「統治的帰属(governmental belonging)」と「受動的帰属(passive belonging)」と呼ばれている。
(略)いま、ある人が「これはわたしのネイションだ(This is my nation)」と述べるとき、そこには二つの意味が込められている(Hage [2003:32-26])。第一は、「わたしはネイションに帰属している(I belong to the nation)」という意味で、この場合「ネイション」は「わたし」を包み込んでいる「空間的なコンテナ」としてイメージされる。「わたし」はいわばナショナルな身体の一部のようなもので、「ネイション」を「我が家のように感じる(feel at home)」権利をもち、「ネイション」に保護され、その資源を受けとる権利をもつ。言うなれば、それはジェンダー化された「母」の役割を期待されているネイション、すなわち「母国(motherland)」との関係である。これが「受動的帰属」である。第二は、「ネイションはわたしに帰属している(the nation belongs to me)」という意味で、この場合「ネイション」は「わたし」に管理される「所有物」としてイメージされる。そこではもはや「わたし」は「ネイション」に包み込まれている個別的な行為者ではなく、ナショナルな空間を上空から見守っている超越的な行為者になる。「わたし」は自らをネイションの「一般意志(general will)」を体現するエージェントと見なし、その空間を管理する権利や、その秩序を回復する権利が自分の手に握られていると想像する*3。それはいわばジェンダー化された「父」の役割イメージ、すなわち「祖国(fatherland)」への自己同一化である。これが「統治的帰属」である。つまり、受動的帰属と統治的帰属はそれぞれ、自己とネイションの関係性――内包/外在、客体/主体、部分/全体――について相異なるイメージを含んでいる。(pp.153-154)
この論文で参照されているGhassan Hageのテクストは、


White Nation: Fantasies of White Supremacy in a Multicultural Society Plute Press, 1998(『ホワイト・ネイション:ネオ・ナショナリズム批判』平凡社、2003)
Against Paranoid Nationalism: Searching for Hope in a Shrinking Society, Plute Press, 2003


ところで、ネイションにおいて差別されるマイノリティの問題は、〈二重の剥奪〉――「受動的帰属」の安らぎを剥奪されるとともに、「統治的帰属」への途も閉ざされる――なのでは?

「国民的帰属」が「流動的で蓄積的」であること(ブルデュー的な意味での「文化資本」概念の導入)(p.154ff.);


ハージにとって、国民的帰属はある人が蓄積している「ナショナルな文化資本」の量に比例する傾向がある。ここで言う「ナショナルな文化資本」とは、ある特定の時期や状況の「ナショナルな空間」の中で価値づけられている典型的な諸特徴(たとえば肌の色、経済力、性別、宗教、国籍、民族、外見、アクセント、振舞い、趣味、ライフスタイル、居住期間)の総体を指している。こうして同じ「移民」の間でも、異なる複数の選別基準が働いて、他の「移民」よりも有利な位置を占める「移民」が現れる。(pp.154-155)
「例えば「白人/黒人」「国民/外国人」というカテゴリー的境界(categorical boundary)」が示唆している二者択一的な図式を脱構築し、(略)「関係の分析(relational analysis)」に捉えなおす」ことを「意図」する(p.156)Charles Tilly(Durable Inequality University of California Press, 1998)の論(pp.155-156)。これに関連して、Hageが言及している例は、「黒人と白人の両親から生まれた子供が、自分よりも「肌の黒い」人々を利用して自分の「肌の白さ」を訴える戦術」*4(p.156)。

ところで、ここで先頃亡くなった土居建郎*5をマークしておくのも決して奇異なことではないだろう。