呉智英、再び

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20080611/1213163941


呉智英「言葉の誤読による糾弾」*2を引く。「明治時代に作られた「北海道旧土人保護法」が差別的な名称の法律だとして国会の議論の的になったのは一九八六年のことだ」とあるが、呉智英、その頃も『朝日ジャーナル』の読者投稿欄で「土人」を巡っての論争を繰り広げていた。つまり、20年以上、同じことを言っているわけだ。なので、別に「新しい視点」なんかではない。
呉智英の主張の問題は、「少なくとも明治時代には「土人」は本来の用法で使われていたはずである」の真偽にあるだろう。取り敢えずここで疑問に思うのは、呉が「旧土人」を「旧(もと)から住んでいる土地の人」と釈義していること。「旧」をもとからと解するのはかなり無理があるように思うが、如何だろうか。旧は新と対立する。さらに、(勿論、例えば復旧というような中立的な用法もあるが)旧という字それ自体がネガティヴな意味を担っている。新と対立してoldであることを中立的にいう場合は古または故、敬意を込めて言う場合は老とするのが、漢語のコンサーヴァティヴな読み方なんじゃないだろうか。その意味では、「旧土人」というのは同じく明治時代に作られた〈新平民〉という用語と対になった差別性を含んでいるともいえる。
ところで、現代中国語では「土」という字はネガティヴな(まさに上海人が忌み嫌う)ニュアンスが含まれている。「土気」(どんくささ)、「土頭土脳」(どんくさい顔つき)等々。これは多分日本語でも同じで、ドンビャクショーは漢字で書けば土百姓だろうし、どんくさいは土臭いということになる。にも拘わらず、或いはそうであるからこそ、ナショナリズム的な心性においては、ポジティヴな意味に逆転することもある。中国で言えば、大躍進運動*3の際に強調された「土法」という言い方。ただ、大躍進運動が悲惨な結果をもたらしたので、「土」のネガティヴ性をさらに強化することとはなった。
差別的な用語でもそう名指された当人たちが自らその意味を変容させたり逆転させて使用するということはあり得る*4。しかし、その権利は先ずそう名指された当人たちにあるのだといえよう。