名前と社会的世界(付け足し)

承前*1

「名前そして自己など」とタイトルしながら、「名前」については何も言及しなかった。「どんな生でも自分だけが関わっているのではなく、誰かしらの他者とともにある」と書いたが、或る名前を引き受けるということは、しばしばその「他者」とともに構成する社会的世界を前提として、その世界への帰属を引き受けるということであろう。
私たちは様々な名前を持つ。俳句を詠めば俳号を持ち、力士になれば醜名を持ち、落語家になれば高座名を持ち、プロレスラーになればリング・ネームを持つ。また、クリスチャンであれば洗礼名を有する。これらの名前はそれぞれ俳句界、角界、落語界、プロレス界、基督教といった社会的世界を前提として、これらの名前が呼ばれることによって、そうした世界への帰属が日々確認されている。当たり前といえば当たり前のこと。
ところで、名前について気になったのは、Jonathan Spenceが「史景遷」*2というように、欧米(特に英語圏)の中国研究者の多くが中国名を持っているということ。日本史や日本文学を研究する西洋人で日本名を持つ人というのはいるのか。小泉八雲は例外として。
名前に関しては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071017/1192588766http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070906/1189061438も参照されたい。