斎藤慶典『哲学がはじまるとき』

哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか (ちくま新書)

哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか (ちくま新書)

最近、斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』(ちくま新書、2007)を読了した。


はじめに


第一部 思考

第一章 当惑
第二章 問い
第三章 哲学
第四章 形而上学


第二部 世界

第五章 存在
第六章 時間
第七章 私
第八章 真理
終章 場所


あとがき
文献案内

本書全体の位置づけは「はじめに」に記された以下の一節にあきらかだろう;

 (前略)哲学という営みは、その在り方からして「入門書」なるものの存在を許容しない。入門書というのは、当該の学問なり専門領域なりの全体像を分かりやすく説明して、これからその世界に分け入ろうとする初心者にその基礎概念や方法論を手ほどきするものだろう。ところが、哲学にはそのような統一的な全体などなく、あるのは個々の哲学のみなのだ。(略)哲学とは私たちの誰もがすでに行なってしまっている「思考」、つまり「考える」こと以外ではないのだが、あるのはそうした個々の思考のみであって、強いて全体というならそれらを寄せ集めたものがあるだけなのだ。そのような寄せ集めに、統一的な全体像や基礎概念や方法論などそなわっているわけがない。そもそも無数に存在するはずのそれらを全部寄せ集めることなんてこそすら、できるはずがないのだ。
(略)もしあなたが哲学の世界を覗いてみたい、あるいはその中に入ってみたいと思ったら、それら個々の思考のうちのどれかに、直にあたってみるしかないのだ。そして、それが真に思考の名に値するかどうかは、っつまりあなたの思考と共振し・あなたを考え込まざるをえない状況へ否応なく連れ去ってしまうかどうかは、あなたとあなたが向かい合っている思考との間でのみ定まる。そして思考が思考と出会いうるためには、どちらもすでに思考でなければならない。つまりあなたは、そのときにはすでにみずから思考しているのだ。あなたはもう。哲学の真っ只中に身を置いているのである。もし哲学に「入門」ということがありうるとするなら、それはこのような仕方でしかありえない。(pp.7-8)
本書の第一部は「誰もがすでに行なってしまっている「思考」、つまり「考える」こと」を、その発生に遡行して、再現(反復)する試みであるといえる。「思考」が些細な「当惑」――「当然そうであると思われていた世界の特定の状態、そうであって当たり前だったはずの世界のある状況が、必ずしもそうではなく、別様でありえたこと、現に別様の世界の状態が出現してしまったことに対する「当惑」(p.20)から始まって、それが「問い」という形式を取り、「当惑」から始まった「思考」は一まずは科学(「学科(ディシプリン)」)というかたちで回収される――「思考に特定の手続きと限定を導入することで、思考の求める答えをより確実かつ迅速に獲得することができるように」すること。「思考が取り組む対象、つまり思考がそれに関してその根拠を問う対象をまずもって限定し、かつその対象へのアプローチの仕方を手続き的に定めることで、特定の学科が成立する」(p.67)。「哲学」は、「ディシプリン」から見れば、「思考がいまだうまく答えることができないでいる段階、答えあぐね・答えそこなった思考、つまりは不首尾に終わった思考」(p.69)ということになる。しかし、「哲学」はそれにとどまらない。斎藤氏が提示するするのは「形而上学」としての「思考」の途である――「「なぜ?」という根拠へのこの問いは」「およそ考えうるかぎりの世界のすべてに・全体へと問いを差し向けることで(略)形而上学へと向かう」(p.92)。それは「思考」が「もはやおのれが問いとして立ち行かない地点に立つこと」、その「地点に自覚的に身を持しつづける」ことである(ibid.)。さらに、それは「思考」の端緒であったあの「当惑」に回帰すること、その「当惑」を反復することでもある;

(前略)もはや意味へと回収できない「問いの外部」は、問いとしての思考に対してのみ示されるのだ。そのような思考のみが、もはやみずからの及ばないものに対して賛嘆にも似た言葉を発することができる。また、そのような思考だけが、問いとしての思考の内に賛嘆の響きを聴き取ることができる。個別化された問いとしての思考に徹する個別科学者の耳にも、この響きが決して届いていないとは言えないと私は思う。そもそもこの響きは、もともと思考が立ち上がる原点であったあの「当惑」、あの「驚き」に、かぎりなく似てはいないか。世界の偏差を目の当たりにして戸惑い、なすすべもなく一瞬立ち尽くすことから、問いとしての思考ははじまったのだった。
そうだとすれば、思考は「なぜ?」という問いを通して世界の根拠をさまざまな仕方で描き出しつつ、あらためてみずからの出立地点に還帰したことになる。すなわち「反復」である。まるであらためて「当惑する」ために、もっともっと深く「驚く」ために、世界の無意味さにより徹底して直面するために、思考は遍歴を重ねているかのようなのだ。思考は必ずしも、理解を手に入れることで安心し・自己のもとに安らう自己充足に尽きるものではない。世界の無意味さを、ということはみずからの営みの無意味さをも含めて、より強度を高めて、より「冪」を上げて反復し、そのことを通じてふたたび・みたび世界を受容し直すこと、あらためて全面的に肯定すること、すなわちそれを「享受」すること、それが思考であるかぎりでの哲学ではないか。(pp.94-95)
第二部は「世界」(「私たちが現に出会い、かつて出会った、そしてこれから出会いうるおよそすべて」、「言葉の最も広くかつ厳格な意味における「すべて」」(p.98)と取敢えず定義される)と題されて、第一部の最後に示された「形而上学*1が実行される運びとなり、私たちは「ある」ことから始まって、「私」を経て、再び「世界」の存立に至るまで、斎藤氏の「思考」に付き合うことになる。
幾つか抜書きをしておきたい。先ず、「「何」ものか」が「出現」することを巡って;

「何」ものかの出現にとって決定的に重要なのは、それが時間的か空間的かというよりも、のっぺらぼうでべったりとし無差別的な「ある」の闇の中にある「隙間・亀裂・断絶」が「距離化」という仕方で開かれることなのだ。この「距離化」ないし「疎隔化(隔たらせること・隔たること)」によって、「ある」にすみずみまで埋め尽くされた闇の中に、相対的であるにせよ「ない」の空隙が差し込み、そこに「何」かが姿を現わす余地が、「場所」が、開かれるのである。距離化とはこの「開け」という事態にほかならず、時間・空間の根本で生じているのはこうした距離化による「開け」なのだ。日本語の「時間」と「空間」という言葉のどちらにも含まれている「間」こそ、両者の根底にあって両者をつないでいるより基礎的な事態なのである。この基礎的な事態を表現するには、「時―空=間」とでも表記した方がよいのかもしれない。「間」が「開ける」ことによって「間」が「開く」ことによって、世界の内に「何」ものかが姿を現わす。すべてを呑み込む「存在」の闇に、「無」の亀裂が走ったかのようなのだ。
もちろん、いま「かのように」と言ったのには理由がある。「ないはない」*2の「無」が直に「存在」の中に侵入したのではなく(そんなことは不可能なのだった)、「存在」が「ありえない」「無」を徹底して拒絶することで当の「ありえない無」に曝し出され、いわばその残照を浴びるようにして「無」のが、相対的で局所的な「無」として、つまり「何」かの「ない」こととして、そしてそのことと相即して「何」かが「ある」こととして、徹頭徹尾「存在」で充満したこの世界の上に投げかけられたのである。妙な言い方だが、存在に走った亀裂は、存在の「中に」走ったのではなく、その「外部に」走ったのだ。(pp.130-131)
また、

時間・空間的な距離が発生することが、そこに「何」かが姿を現わす余地を開いた。この余地は、相対的・局所的な無、先に私が「無の影」と呼んだものから成っている。この無の影に取り囲まれ、あるいはそこに無の影が落ちることによって、いま・ここに「何」かが存在する。すなわち、存在するもの(存在者)として姿を現わす。「いま・ここ」という時間・空間内の存在の定位点は、当の「いま・ここ」を中心にしてその周囲を「いま・ここ」で「ない」もの、すなわち「さっき・そこで」や「いずれ・かなたで」によって取り囲まれることで確立される。このときその「さっき・そこで」や「いずれ・かなたで」は決してそれ自身のもとに充足しているのではなく、自己自身から(「さっき・そこで」等々……へと)距離をとり、いわば自己自身から「外へ出る」こと(「外出=脱自」ex-tase)ではじめて自己自身たりえている(同じ事態を逆から言えば、自己自身の内に何らかの仕方で「外が入り込む」こと――「侵入in-vasion」にして「到来=発明=捏造in-vention」――ではじめて自己自身たりえている)。これが、「いま・ここ」に「何」かが存在することを可能にする距離化、すなわち「間の開け」だった。(後略)(p.133)
「世界」が開かれるための「媒体」としての「私」を巡って;

(前略)「何」かが「何」かとして時・空間的変転の中で「同じ」ものでありつづけるためには、その存立に居合わせる証人が必要なのであり、それも厳密には同じ一人の人のみ、一つの想像力のみがその証人で在ることができるのだ。
同一の想像力がそこに根を下ろしている同じ一人の人、これを「私」と呼ぼう。通常、同じ一つの想像力が根を下ろすことができるのは、一人の人物の内以外ではないからだ。「私」とは想像力の座、それもただ一つの時・空間がそこから開けるところの場所なのである。このような同一の想像力(と概念の能力)に対してのみ。すなわち「私」に対してのみ、〈世界の内に「何」かが存在する〉という事態が可能となるのだ。(略)世界の内に「何」かがそれ自体で存在しうると考えるのは錯覚にすぎない。そのような想定がなされること自体が、すでにそのような想定をする「私」がこの想定に居合わせていることを示してしまうのである。世界が〈そこに「何」かが「何」かとして存在する時・空間的開け〉として開かれることにとって、いわばそこから世界が開かれることになる「私」という想像力の座が不可欠なのだ。したがって、世界が〈そこにおいて「何」かが(「何」かでありうるすべて)が存在する時・空間的開け〉なのだとすれば、そのような開けに必ず居合わせ・そのような開けを可能にしている「私」は、そのようにして開かれた世界のすみずみにまで偏在し・浸透していることになる。いわば「私」は、世界の時・空間的開けの媒体なのだ。「私」から、そして「私」を通してのみ、世界は開かれるのである。
そしてこの開けは、「存在(ある)」の無差別の闇に沈んでいた世界に「無(ない)」の影が映り、たとえ相対的・局所的にもせよ、〈「ない」が「ある」〉という矛盾にも似た事態が成立することが可能になったのだから、「私」とは「無(ない)」の影を孕む者、みずからのもとに「無」の亀裂が走ったことの痕跡を見出す者、「無」の残照を浴びた者なのであり、そのことを以てそこから世界が開かれるのだ。だが、そのような「私」はあくまでも想像力の媒体であることを忘れてはならない。私が世界を開くのではなく、「ない」を「ある」とすることのできる想像力が世界を時・空間的な仕方で開くのであり、そのようにして開かれた世界において概念が(略)「何」の内実を規定することを以て、〈世界の内に「何」かが存在する〉ことが可能となったのである。(pp.161-163)*3
さて、本書で斎藤氏が論じていないもの、それは(世界の存立に関わるものとしての)〈他者〉のことだろう*4。たしかに、世界は「私」を「媒体」として開かれるが、世界が「私たちが現に出会い、かつて出会った、そしてこれから出会いうるおよそすべて」である以上、世界は私が生まれる以前から存在し、私が死んだ後も存在し続けるということになる。私の誕生以前、死後の世界を開いていたのは、開くであろうのは、やはり〈他者〉なのであろうし、そこには何らかのリレーの構造が想定されなければならないだろう。また、世界は私の主観的な妄想ではなく、客観的に存在しているのであり、それは世界が私に対してだけではなく、私ではない〈他者〉に対しても現われているということによってのみ基礎付けられるのではないだろうか。その意味では、本書は例えば、

人‐間である、すなわち人の間にあるかぎり、各人は、そのつど他者に対して‐なにものかとして‐ある。(略)人‐間であるというときの各自の存在は、存在しているかぎり、どこまで行っても対他存在なのである。自己意識がどんなに先鋭で孤独であろうとも、そもそも自己が対他存在である以上、単独者としての自己意識もまた、他者によって‐意識されて‐ある‐ということの意識、を離れては成立しえない(略)。(p.62)
ということを説く大庭健氏の『善と悪』と相互に補完されるべきものであるかもしれない。
善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)

善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)

*1:ここで言われる「形而上学」がマスキュラインかつ非モテ的な〈哲学〉とは別物であろうことは記しておかなければならない。Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070514/1179125368

*2:パルメニデス。Cf. 109ff.

*3:ここはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080331/1206966495とも関連する。また、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080308/1204949369で同じような問題をフッサールを踏まえて論じている斎藤氏の「「私」について――社会学への哲学的プロローグあるいは幕前のモノローグ――」というテクストを引用したが、ここではカント『純粋理性批判』(第一版)をベースにしていることが明らかにされている(pp.173-174)。

*4:〈他者〉については、終章「場所」で論じられているが(pp.208ff.)、そこでは〈他者〉と世界はそれぞれの存在が前提とされた文脈で論じられており、「私」と等根源的・対等に世界が開かれる「媒体」としての〈他者〉は登場しないように思われる。