フォイエルバッハの「原理」の帰結(メモ)

承前*1

共同存在の現象学 (岩波文庫)

共同存在の現象学 (岩波文庫)

将来の哲学の根本命題―他二篇 (岩波文庫 青 633-3)

将来の哲学の根本命題―他二篇 (岩波文庫 青 633-3)

カール・レーヴィット『共同存在の現象学』I「フォイエルバッハの将来の哲学の根本問題」b「フォイエルバッハ哲学のふたつの原理」の続き。「ふたつの原理」の「帰結」について;


認識の真理とは、認識が対象を自体的にあるがままに捕らえることにある。そのかぎりで、共同世界的な関係の原理的優位から、以下のふたつの帰結が生じる。
1 人間という存在のしかたをしている対象だけが、そうした意味で真に「客観的」な認識を与える。すなわち、対象をその「自−体(en-sich)」において開示しうる認識を与えるのである。――物件*2ではなく人間のみが、じぶん自身から私たちにかかわり、みずからじぶんを開示しうるからである。
2 客観的な認識の「真理」は、その認識が「普遍性」をもつことによって保証される。すなわち、その認識がたんに私にとってばかりでなく、他者たちに対しても真理であることによって保証されるのである。(pp.48-49)

(前略)真なるものは、ひたすら〈私のもの〉というわけでも、〈きみのもの〉というわけでもない。それは普遍的なものなのだ。〈私〉と〈きみ〉をひとつにむすぶ思想こそが真なる思想である。私がじぶん自身に対して、ひとつの思想を明晰に展開しようとするときには、意識的にせよ無意識的にせよ、たんに〈私のもの〉であるという形式をこの思想から取りのぞいて、それを普遍的で伝達可能なものとする意図をともなうのである。
とはいえ思考を伝達する叙述は、目的に対するたんなる手段にすぎない。叙述は思想を物質的に分割して、あるいは運ぶことで思想を媒介するわけではない。思想、あるいはことばの意味は、一般に、ことばどおり、あるいは文字どおりに固定されるものではないからである。ところがヘーゲルの学的な芸術趣味はその固定を断行しようとして、読者の理解を先どりし束縛するほどに、思想をことばのなかに術語的に圧縮しようとこころみたのであった。それを定式化して叙述しようとするまえにじぶん自身の思考が先だって存在すること、そこに宛ててじぶんが叙述しようとする他者の思考もまたあらかじめ存在していることを、ヘーゲルは見すごしている。ヘーゲルにとって、いっさいは叙述の形式のうちに入りこみ、そこで消失してしまい、そのようなしかたでいわば自身を伝達して、証示し証明しなければならなかったのである。現実の証明、証示および反駁は、けれどもその意味からして、他者の自立的な思考様式を計算に入れているものである。その他者に対して、或ることがらが証示されるからだ。(後略)(pp.51-52)

私たちにとって問題となるのはいまや、現象学的な分析をつうじて、フォイエルバッハの根本命題がそのものとして有している命題のかたちからその根本命題を解きはなち、フォイエルバッハが引きあいに出す、まさしく「感性的直観」によって、その諸命題を訂正し拡張することである。私たちはそのさい《きみ》をめぐるフォイエルバッハのテーゼに限定し、以下の三つのことがらを問うことにしたい。


 一 或る者はどのようにして、他者たちのなかでひとりの《きみ》と出会うのか。
 二 《きみ》は現実に、ひとりの〈私〉にとっての〈きみ〉にすぎないのか。
 三 《私》は現実に、ひとりの〈きみ〉にとっての〈私〉にすぎないのか。
(p.52)