独逸における戦争の記憶(メモ)

高橋秀寿「グローカル化時代における戦争の記憶――ドイツ人の空襲経験をめぐって」『図書』706、pp.26-29、2008



終戦後、西ドイツは全体主義論的な「犠牲者共同体」、つまりナチズムとコミュニズムの犠牲者から構成された国民共同体の形成をめざした。そのため、戦争文学や映画ではドイツ兵や一般市民がナチスの無謀で、野蛮な戦争遂行の犠牲者として描かれる一方で、東欧からのドイツ系「被追放者」とソ連下のドイツ人捕虜の悲劇に関しても多くの文学・映画作品が生み出された。
しかし、ドイツ諸都市への空襲の直接的な加害者はアメリカとイギリスであったため、分裂国家として冷戦の最前線に位置し、再軍備した西ドイツで被害を強調することは、この同盟国の軍事戦略に対する批判になりかねなかった。しかも、第二次世界大戦においてこの軍事作戦はもともとドイツ軍の「十八番」だったのであり、一九三九年九月のワルシャワ空襲では二万人が犠牲となり、ロンドン空襲の犠牲者は総数四万人に上った。何よりもピカソの『ゲルニカ』は、スペイン内戦の際にナチス・ドイツが行なった空襲の被害を描いた作品であり、自国軍による空襲(例えば上海空襲やオーストラリア空襲)の記憶を欠く日本人とは異なり、ドイツ人は空襲の加害者であることも自覚せざるを得なかった。そのため、日本のように空襲・原爆経験に基づいて平和主義的な「犠牲者共同体」を形成していくことは困難だったのである。(pp.26-27)
ドイツにおいて、「空襲」は〈復興の物語〉として語られることになる;

とはいえ、空襲経験はナショナルな「物語」と無縁であったわけではない。この経験は空襲自身ではなく、その結果である瓦礫と廃墟のなかに「物語」を見出した。それは、「零時」からドイツ人は不死鳥のように立ち上がり、復興と「奇跡の経済」を実現することで、豊かで民主的な国民共同体を築き上げたという「サクセス・ストーリー」であり、空襲の記憶はこの「サクセス・ストーリー」のなかに回収されていった。空襲経験は犠牲と苦悩ではなく、その克服の「物語」となったのである。(p.27)
では、「ホロコースト」はどのように記憶されたか――

五〇年代の「犠牲者共同体」においてホロコーストは、多くの悲惨な出来事の一つとしてのみ記憶され、あるいは全体主義論的な枠組みのなかで理解された。ナチ強制収容所の「過去」はソ連の捕虜収容所や収容所群島の「現在」と同一視されたのである。六〇年代以降においてもホロコーストは、責任者糾弾のための「罪状証拠」、あるいは西ドイツの政治・社会的な民主化を達成するために学習すべき「教材」であった。(ibid.)
ドイツにおける「ホロコースト」認識が変えたのは米国のTVドラマ『ホロコースト』だった*1。高橋氏曰く、「ユダヤ人一家の視点からホロコーストを描き出したこのドラマを通して、ドイツ人ははじめてホロコーストをその犠牲者の立場に身をおいて記憶し、その「他者」の過去が「私たち」の未来においても起こりうる破局であることを感じ取ったのである」(ibid.)。
その後、「ホロコーストの記憶」は「ナショナルなコンテクストから離れ、コスモポリタン化していく」(ibid.)。米国ワシントンの「ホロコースト博物館」、スピルバーグの『シンドラーのリスト』等々。さらには、「コソヴォ紛争への軍事介入」問題(p.28)。そして、ドイツの「空襲経験」に「コスモポリタン化」した「ホロコースト」が逆に適用されるようになる――2002年のヨルク・フリードリヒ『火炎(Der Brand)』の出版と英国における反発。また、「 ホロコースト」のレトリックの「極右主義者」による利用――

ザクセン州議会で議席を得たドイツ国民民主党の議員は二〇〇五年のドレスデン空襲六〇周年の機会に「爆撃ホロコースト」概念を用いたのである。この極右主義者はホロコースト否定論者ではなく、ホロコーストの記憶の道徳的基準を英米軍の軍事作戦に適用していたのである。(ibid.)
また、「ドイツの極右主義者は記憶のグローバル化を通して〈加害国 vs 被害国〉のナショナルな二分法的枠組みを崩しながら、ナショナルな観点からドイツ史の「汚名」を拭い去ろうとしたが、イギリスの論者は記憶をその枠組みに引き戻すことでイギリス史の「名誉」を保持しようとした」(p.29)。

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050801にて、仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書)に言及したことを思い出す。仲正氏が描き出す独逸像と高橋氏が描き出す独逸像の違いはどこに由来するのか。

日本とドイツ 二つの戦後思想 (光文社新書)

日本とドイツ 二つの戦後思想 (光文社新書)

また、独逸空襲経験を独逸軍に捕らえられた米軍兵士という微妙な立場から言語化したのは、カート・ヴォネガット*2の『スローターハウス5』であったと思うが、独逸においてヴォネガットはどう受け入れられたのかということも気にはなる。

なお、『図書』の同じ号に載った小沢節子「映画のなかの原爆の絵――「私の記憶」が変容するとき」(pp.22-25)も秀れた小論であるということも記しておく。

*1:私は「ホロコースト」という言葉自体、このドラマで知った。

*2:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070413/1176447434