ハーヴェイ・サックス as 「対抗文化論」?

石飛和彦「ふたつの「対抗文化」論をめぐって− ウィリスの「野郎ども」とサックスの「ホットロッダー」 −」(originally published in 『天理大学生涯教育研究』no.2,pp.31-44、1998) http://www2s.biglobe.ne.jp/~ishitobi/ccul.htm


ハーヴェイ・サックスの「ホットロッダー」論文を「対抗文化」論として読むということは、例えば山田富秋&好井裕明『排除と差別のエスノメソドロジー』辺りからエスノメソドロジーに入門した人にとっては十分に納得のいくことだろう。しかし、このような仕方で、ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』と比較され、そして「サックスのアイディアは彼自身の意図を裏切る形で「対抗文化」ないし「対抗文化論」の死を宣言してしまっているのではないか、と思われるのだ」と言われているのはちょっと意外だった。では、どのように「「対抗文化」ないし「対抗文化論」の死を宣言してしまっている」のか。長い引用で恐縮だが、著者がサックスの「カテゴリー」論を「消費社会」論に結び付けているところを丸ごと引用することにしたい;


「ホットロッダー」達のカテゴリー・システムが「革命的」であるための条件は何か?ごく当然のはなしとして、それは、「大人」ないし「全体社会」のカテゴリー・システムに対抗するようなものでなければならないはずだ。ところが、サックスの議論を辿ると、彼がカテゴリー・システムの供給する具体的な意味内容をまったく問題にしていないことに気づくだろう。つまり、サックスの議論を辿る限り、「ホットロッダー」が革命的なのは、彼らの用いる言葉が大人や社会に対する反抗に満ちているからではなく、単に彼らが独自の言語システムを自立的に運用しているからという理由のみによって「革命的」なのである。このことは、ウィリスの〈野郎ども〉が具体的な反権威主義的価値観をもって描かれていたこととは対照的である。無論、だからといってサックスの議論が不完全であるということにはならない。むしろ、繰り返すように、階級社会という「具体的な敵の見える」社会における対抗文化を記述したウィリスの分析に対し、サックスは、情報化社会という「具体的な敵の見えない」社会における対抗文化の在りようを的確にモデル化していたと言える。ただし、「具体的な敵の見えない」社会に於いて「革命的」であることが果たして可能だろうか、と、更に問い直す事はできるだろう。それは、ウィリスとサックスの理論モデルの優劣を問う問いではなく、両者が属し記述を試みた社会そのものの差異をめぐる問いである。この問いは、改めて問われるに値する問いであろう。
一方、より身近な経験に引きつけて考えるならば、サックスが「ホットロッダー」達のものとして描き出したカテゴリー・システム、すなわち、「大人」「全体社会」の言語からは自律したマイナーな言語、余所者にはわからない内輪のマニアックな言語、は、今や我々の身近なところで、特に「革命的」と顕揚するまでもないほどに、あふれているではないか。「ホットロッダー」達が自動車について産み出していた詳細な分類学は、今や、さして反社会的でもない文化のあらゆる領域で展開されている。ファッションや小物について、音楽について、食物について、スポーツや趣味について、我々は、詳細なカタログや蘊蓄を与えられており、それぞれのジャンルの部外者にとっては理解不能なやりかたで、あれはイケてる、これはダサい、とこだわりながら生活を営んでいるのだ。いわば、「分衆の時代」に相応しい形で、「ホットロッダー」的なマイナーなカテゴリー・システムが社会全体を覆ってしまっているのである。この事態は、社会の「消費社会」化に対応している。
「消費社会」を、ここでは簡明に、「生産システムの自己展開が進んで、消費が生産に追い付かなくなる危機に直面し、そのために改めて大量の消費欲望を産出するためにメディアを介して細分化された「イメージ」のカタログを供給する必要が全面に展開する社会」と理解しておこう。
近代=資本主義社会の前期にあっては、生産システムを合理化し効率化することが社会の課題だった。ウィリスの分析した階級社会とは、イギリス産業革命以来のそうした生産主導の社会である。そこでは、資本主義的な合理主義に対する労働者文化、そしてそれと相似をなす図式として、学校に対する〈野郎ども〉の文化、が描き出されていた。ウィリスの分析は、反合理主義的な「対抗文化」がいかにして合理主義的な資本主義的生産システムに吸収されていくか、あるいはその吸収を逃れ社会を変革する手掛かりとなりうるか、という点に焦点を当てていた。ところが、そうした産業革命以来の生産システムの展開は、ある時点で決定的な危機を迎える。生産システムの拡大再生産的な展開はある時点で、社会の総需要のラインを踏み越えてしまうのである。それ以降、社会の課題は、いかに生産システムを効率化するか、ではなく、拡大再生産を続ける生産システムの自己展開に見合うだけの大量の消費をつくり出すこと、消費者の側に大量の消費欲望を煽り立てること、になる。そのために、資本主義はメディアと連結する。単なるモノではなく、モノにまといつく「イメージ」を売ることが、危機の解決戦略となるだろう。今や、1台の自動車を最後まで乗り潰す者はいない。車を買い換えたからといって通勤時間が短くなるわけでもないのに、我々は次々と車を買い換えるだろう。それは、車が単なるモノであることをやめ「イメージ」商品となり、シーズンごとに次々とカタログ変更されるモードの論理に従い始めたからにほかならない。「消費社会」=「情報化社会」の成立である。
「ホットロッダー」的なマイナー・カテゴリー・システムは、まさにそうした消費社会のメディア戦略に端的に適合している。それは、「革命的」であるどころか、まさに消費社会の中核的装置=メディアに連結してしまったのである。そこでは確かに、マイナーな内輪の言語が交わされ、部外者の入る余地のない、サックスの言う意味での自律的な世界が営まれている。しかし、そのようなマイナーな世界が大量に分立し、個々の消費者が「価値観の多様化」を享受するようにマイナーな世界で自らの欲望を「自律的」に追求することそのものによって、消費社会がより安定して展開することになるのである。
サックスのアイディアが彼自身の意図を裏切って「対抗文化」「対抗文化論」の死を宣告してしまった、というのは、大まかには、こういう意味である。「対抗文化」は、全体社会によって圧殺されるのではない。むしろ、社会の中核に取り入れられることによって、その可能性そのものが蒸発してしまうのである。
先ず、サックスというかエスノメソドロジストにとって、「カテゴリー」とは相互行為の条件であり、私たちの日々の相互行為は「カテゴリー」の使用或いはカテゴリー化の実践ということになる。著者は、

むしろその単純さによってこそ、すなわち、言語カテゴリーに分析視点を限定したことによってこそ、サックスのアイディアは画期的なものとなっているのだ。なぜなら、サックスにとって、「全体社会の支配的文化」と「対抗文化」との闘争は、具体的な顔の見える小さな集団によって担われるものではなく、より一般的な情報流通空間の中に位置づけられるものに他ならなかったからである。ウィリスがイギリスの具体的な階級社会の中で研究を進めていたのに対し、サックスはアメリカという高度に情報化された社会の中で研究を進めようとしていたのだ
と述べているが、エスノメソドロジストは、英国であれ米国であれ、産業社会であれ消費社会であれ、或いは未開社会であれ、日々の「カテゴリー使用」の実践、それによる社会的状態の達成を淡々と記述していくのであろう。また、米国の「ホットロッダー」たちだって、その「カテゴリー」を使用するのは教師とかマッポとかとの「具体的な顔の見える」関係においてであろうことは想像可能だ。また、1冊に纏まったエスノグラフィと短い試論を同等な仕方で比較することの是非についても、どうよといっておいていいのだろう。勿論、著者の「マイナーな世界が大量に分立し、個々の消費者が「価値観の多様化」を享受するようにマイナーな世界で自らの欲望を「自律的」に追求することそのものによって、消費社会がより安定して展開することになるのである」という指摘が間違っているというつもりは全くない。
エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

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排除と差別のエスノメソドロジー―「いま‐ここ」の権力作用を解読する

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ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

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おまけ:榎原均「西原和人『自己と社会』に学ぶ」http://www.office-ebara.org/modules/xfsection05/article.php?articleid=64 「和久」が「和人」になっている。