『不在の騎士』

不在の騎士 (河出文庫)

不在の騎士 (河出文庫)

暫く前に読了したイタロ・カルヴィーノ『不在の騎士』についてのメモ書き。
この小説の一応は主人公である騎士「アジルールフォ・デイ・グィディヴェルニ」は存在しない存在しないにも拘わらず、存在しないものとして物語の中に存在し、それのみか存在する者たちとコミュニケーションをし、ともに行為する。具体的には彼の甲冑、空の甲冑がしゃべったり、歩いたりするということになる。甲冑は(というよりも衣服一般は)それを着用する者を換喩的に指示する。甲冑=シニフィアン、それを着用する者の存在=シニフィエという関係が成り立つだろう。甲冑だけ存在するということは、純粋なシニフィアンとして存在するということだ。また、アジルールフォは肉体が不在なので、純粋な精神的存在であるともいえる。純粋なシニフィアンにして、純粋な精神。

眠っている陣営は肉体の天国、その昔のアダムのときと変わらぬ肉の一面の拡がりであり、飲み干した葡萄酒と、また戦陣での一日の汗との匂いを漂わせていた。その幕舎の入口には、また空ろになった鎧がばらばらに横たえられていた。従卒や郎等が朝には磨きあげ、手入れするのを待っていた。アジルールフォは油断なく、神経質そうに、厳めしく歩いていた。肉体をもつ人々とその肉体が、なるほど、羨望の念にも似た違和感を彼に起こさせてはいたが、それはまた同時に見くだすような誇らしさ、息づまるような優越感でもあったのである。同僚の名声赫赫たる武将たちも、見ろ、結局は何なのだ? また功名手柄と勇猛ぶりを証しするその武具も、今はただ藻抜けのからの器、中身の欠けた鉄屑に過ぎないものになっているではないか。そして御本人は、むこうで枕に顔をおし当てて、だらしなく開いた口から涎なんぞをたらして、鼾をかいているのだ。しかし、彼は違う。彼をばらばらに解いたり、切り放したりすることはできっこないのだ。(後略)(pp.16-17)
アジルールフォと対立するのは、アジルールフォの従者となるグルドゥルーだろう。彼は家鴨を見れば自分が家鴨になってしまい(pp.37-40)、「魚獲り」をすれば自分が魚になってしまい(p.40)、王と話せば自分が王になってしまい(pp.44-46)、スープを飲もうとすれば自分がスープになってしまう(pp.46-48、pp.81-83)。また、「グルドゥルー」という名前も決まったものではなく、「土地」と「季節」毎に呼び名が変わる――「どのような名前も、けっしてあのものの身にぴったりと合うことがなく、次から次へと流れ去ってゆくとでも申しましょうか」(p.43)。彼の喋る言葉にしても、

敬々しく平伏すると、息もつがずにしゃべり始めた。それまでは彼がただ動物の鳴き声ばかり発するのを聞いて来た殿さまがたは、あっけにとられるばかりだった。その話し方はひどく早口で、言葉を嚥みこんだり、こんがらがったりしていた。ときどきは、方言からまた別の方言に、ときによってはまたある国語から他の国語に、キリスト教徒の国の言葉だろうとモール人の言葉だろうと平然と、途切れることさえもなく、乗り移ってゆくこともあるらしかった。(後略)(p.44)
という具合である。アジルールフォが純粋なシニフィアンであるとしたら、グルドゥルーはどんな記号(シニフィアン)によっても意味されることのできる純粋なシニフィエといえるかも知れない。シャルルマーニュ王は、アジルールフォとグルドゥルーを対比して、

おお、これは愉快じゃ! ここには存在しておりながら、自分の存在しておることを知らぬというこの男、そしてむこうには、おのれの存在しておることを承知してはいるが、その実、存在しておらぬわしのあの臣将(paradino)! これはみごとな一対じゃ、間違いないぞ!(p.42)
という。アジルールフォとグルドゥルーの対立は、シニフィアンシニフィエとの対立であるとともに、意志(意識)と無意志(意識)或いは肉体との対立でもある。
また、物語の中でアジルールフォとパラレルな存在を探せば、「聖杯」への同化を目指す「神聖騎士団」だろう(p.177ff.)だろう。これは結局は最悪の搾取者として暴露されてしまうわけだが。また、外部の対象への同化ということでは、グルドゥルーとも境界を接することになるのだが。
さて、『不在の騎士』は逃走と追跡、追い掛けっこの物語でもある。アジルールフォはソフローニアを追い掛け、ブラダマンテはアジルールフォを追い掛け、ランバルドはブラダマンテを追い掛ける。また、トリスモンドは「神聖騎士団」を追い掛ける。他方、アジルールフォはシニフィアン(甲冑)から逃走する(pp.194-200)。これはランバルドとソフローニアとの地上的幸福が成就するためのトレード・オフだということもできよう。しかし、純粋精神(意志)であろうとするアジルールフォにとって、甲冑という物質性はやはり躓きの石だろう。ちょうどソシュールのロゴサントリスムにとって記号という物質性が躓きの石であったように*1また、最後の場面で、この物語の語り手である「修道尼テオドーラ」と女騎士ブラダマンテが同一人物であることが明かされ、ランバルドを追い掛けていくが、テオドーラ=ブラダマンテは物語或いはテクストという閉域から逃走したのだといえるだろう。
ところで、『不在の騎士』の語り手は書くことによって物語から逃走するが、これは(勿論そこに因果的な影響関係はないだろうが)ガルシア・マルケスの『百年の孤独』の語り手とちょうど反対である。『百年の孤独』の語り手は読むことによって、テクストに閉じこめられるとともに、世界を崩壊させる。
百年の孤独 (新潮・現代世界の文学)

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*1:取り敢えず、Jonathan Culler On Deconstruction, pp.97-102辺りを参照されたい。

On Deconstruction: Theory and Criticism After Structuralism

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