『文明としてのネットワーク』

文明としてのネットワーク

文明としてのネットワーク

暫く前に、林敏彦、大村英昭編『文明としてのネットワーク』(NTT出版、1994)を読了する。「NTTデータ通信株式会社システム科学研究所」の企画による本。1994年刊行、まだインターネットが一般化する以前である。


はじめに


第1章 新ネットワーク論(林敏彦)
第2章 ネットワークの生態(林敏彦)
第3章 情報技術革新とネットワーク産業――銀行業の場合――(池尾和人)
第4章 空転する世界――システム外無根拠性ということ――(大村英昭
第5章 ネットワーク社会の未来像(端信行)
第6章 ネットワーク社会と「文化疲労」(大村英昭

第1章と第2章は、経済学的概念としての「ネットワーク」についての概説の趣。池尾和人氏の第3章はその各論という感じ。第2章では、「標準」を巡る争いが言及されている(p.45ff.)。勿論、1980年代のヴィデオのベータvs.VHSの争いも論じられている(pp.49-51)。それよりも興味深いのは、「相対立する標準のいずれもが勝利を収めなかった結果として」(p.49)、技術そのものがぽしゃってしまった「四チャンネルステレオ」の例(pp.47-49)。
この本の中で、(少なくとも読み物として)最も面白いのは、大村英昭先生の「空転する世界」だろう。経済学的な「ネットワーク」概念(特に「ネットワーク外部効果」)を、「数は力なり」、「勝てば官軍」という諺に落とし(p.101)、それを改めて「システム外無根拠性」とし、宗教、少年非行、さらには科学論における事実の理論負荷性の議論へと繋げていく。そんなものはとうの昔にラベリング論が、さらにはデュルケームが言っていたんだよというわけである。
少し抜き書きしてみる。

かりに、ハレー彗星がまもなく衝突するという噂が広まり、多くの人びとがその予言を信じて行動したとしても、その結果として、予言された衝突が起こるということはあり得ない。あるいは、三日後に秋田沖の日本海で大地震が起こると、かりに気象庁が予測し公表したとして、これを聞いた“地震さん”が、「先に言われてしまっては面白くない、やめた!」などと反応するかといえば、そんなことはもちろんあるまい。
つまり自然現象は、予言があろうとなかろうと、それとはまったく関わりなしに事態は進行する。その限りで予言はまさしく現象の外部にあると言っていい。ところが社会現象の場合、ことの成り行きは、現にそれを担っている人の動きによって変化する。かつ人は、予言に反応してしまう。当然、予言の有無は、事態の進行を、いわば内側から左右することになるわけだ。
こうも言える。人の行為は、状況に対する反応として生じるのだが、その状況は、単なる物理的環境ではなく、人間によって意味づけられ、構成された「生活世界」である。つまり、人間は、必ずしも状況の客観的特徴に対して反応するわけではなく、自分たちがその状況に与えた意味、状況定義(definition of situation)に対して反応する。そして、人びとが何らかの意味をその時の状況に付与すると、続いてなされる行為やその行為の結果は、この付与された意味によって規定される。(pp.122-123)

(前略)おそらく、われわれの世界が、あるがままの物理的環境によってではなく、言語的な構成によって成るというところに、すべてのことが由来するのであろう。「不条理ですらなくて、ただそこにあるだけ」。おそらく、そうである「もの自体」の世界に、だが、われわれは、何らかの「意味」を見いださずにはおかなかった。結果は、自らがつむぎ出した意味の網目に、自ら引っかかって宙づりになっている、それが「システム外無根拠性」の、それこそ根拠であろうと私は思う。(p.131)
この「言語的な構成によって成る」世界は「記号」の世界であるともいえる。所謂「今の情報化社会」は「ヒト科動物の特徴」としての「記号性」を「より鮮明に露出するようになった」ともいう(p.139)。大村先生はこのテクストの最後で、「記号の運命」と題して、「記号」(シニフィアン)の問題について論じている*1。曰く、

ここに、「リンゴは赤い」という文と、「リンゴは(片仮名で)三文字だ」という文があったとする。同じ“リンゴ”という文字記号が、前のほうでは、もちろんあの果物のリンゴを指示しているのに、あとのほうの文では、そうではない。言語学では、前者のような場合、“リンゴ”は透明に使用(use)されていると言い、後者の文の“リンゴ”は、反射ないし言及(mention)になっていると言う*2。実は、文字に限らず、音声にせよ何にせよ、記号にはこのように、対象レベルで透明に使用される部分と、メタ・レベルで記号そのものに反射してしまう、いわば身体(肉体)部とが分かち難く結びついている。
意味の「一義性」を確保したい場合、この身体部は邪魔になるから、記号は、できるだけ透明に、いわば己れを隠していてくれることにしくはない。記号の純度を高めるというのは、この限りで、己れの肉体性をうすくすることといって間違いあるまい。
貨幣の歴史などを見ると、そのいわば「透明化」の過程がよく分かる。(後略)(pp.139-140)

だが、記号の進化は(略)その透明部の、身体部からの自立という方向を取る。言語の歴史もまたそうであって、かつて音声言語のみの時代には、おそらく「大」は「小」より、大きな声ないし大きいジェスチャーで表示されていたであろうものが、今の数字でなら、どんなに小さく書かれても、大きい数値は「大」を意味する。同じ書き言葉であっても、肉筆からワープロ文字へと、それだけ肉体性をそぎ落とした記号が使用されるようになってもいく。
しかし、だからといって、完全な透明記号があり得るだろうか。限りなく透明になろうとしても、なお、音の波であり、インクのしみであり、電気刺激であるという肉体性は、払拭しきれるものではない。いや、払拭しきれない「記号の運命」こそが、実は、われわれの世界の意味の豊かさを保証している。
(略)そう、はっきり言ってしまえば、「一義的」というのは、本来、多元的な意味の層から成る現実からは、それだけ遠ざかっているということ。もっと言えば、「虚仮不実」というか、でっち上げられた世界だということなのである。
ものを記号として消費する社会が、「情報化社会」だとして、そこに蔓延する記号は、透明になりたがるという一種の癖を持っている。身体性や肉体性をそぎ落とせば、それだけ意味世界は自由に飛躍できるからだ。しかし、その分、ものの法則から分離した意味の法則が独り歩きする、より幻想的な社会ともなるであろう。(pp.141-142)
文化人類学者である端信行氏の「ネットワーク社会の未来像」は、「ツリー」と「ネットワーク」を対立させた、一種の比較文明論的な論攷になっている。この中で興味深いのは「情報化の進展」が「われわれの社会を情報によって分断し」「一種のエスニック集団」の誕生を促す(p.175)という「クラスター化」(p.172ff.)の指摘か。また、その冒頭で「C&C革命」という現在では殆ど使われない言葉が出てきて、その例として「電話の交換機能」の完全自動化が挙げられていることをメモしておく――「八〇年代には、電話によるすべての通話が自動的にしかも地球レベルで可能になった」(p.145)。
大村英昭先生の「ネットワーク社会と「文化疲労」」は、第4章最後の「記号の運命」問題を敷衍したものであるといえる。ここでは、リースマンの「内部指向」と「他者指向」、ルース・ベネディクトの「恥の文化」と「罪の文化」、さらにはゴッフマンの「外見の社会学」が言及されるのだが、(機能主義)社会学的な「役割」概念が批判されている部分をメモしておく。曰く、「キー概念がドラマから借りたメタファーでありながら、しかも社会学の用語法では、演じられていないもの(社会システムに果たす機能的意味あい)こそが「役割」なのである」(p.199)。そして、

一つには、演技や遊びを、うそないし不真面目として貶下する近代の誠実イデオロギーが、社会学にも濃い影を落としてきたこと。二つには、それと深く関わりながら、外見よりも中身ないし遂行機能だけを恣意的に抽象する、(私の言う)透明人間モデルが自明のドメイン・アサンプションになってきたこと。以上、二つが併さって、社会学は一方で行為の表現(expressive)面を想わせる「役割」概念を折角採りながら、実質上、それを台無しにしてしまう体の、「目的−手段」図式、ないし行為=道具(instrumental)観に固執してきたのだ。
よくは知らないが、経済学でも、「目的−手段」図式をとる限り、よく似た透明人間が、実はホモ・エコノミックスなのではあるまいか。「生産」といい「消費」といっても、それらは外見を捨象した不可視の遂行機能として概念化されてきたのではないだろうか。ひとの行為が、なによりもまず身体の営みであり、したがって見えるものだということは、案外、(近代主義の)社会科学一般が等閑視してきた点だと私は思う。(pp.199-200)