15人目

邵寧「第15位出席者照片挂上“一大”会址」『新民晩報』2007年9月27日
邵寧、倪穎「中共“一大”第15位出席者露真容」『新民晩報』2007年9月27日


上海の新天地は香港の瑞安集団が開発したショッピング・モール/観光地であるが、その核となっているのは、「“一大”会址」である。1921年7月23日に、当時仏蘭西租界内であったここで、中国共産党の第1回大会が開かれた。「一大」には、毛沢東を初めとする15名が出席したが、その内、和蘭人のマーリン(馬林)と露西亜人の「尼克爾斯基」は第3インターナショナルから派遣された。しかしながら、その15名のうち、「尼克爾斯基」だけは詳細がわからず、写真も残されておらず、「“一大”会址紀念館」の展示でも「尼克爾斯基」については空白のままだった。既に1980年代から、外交ルートを通じて、蘇聯共産党に対して、「尼克爾斯基」についての資料蒐集の要請が為されていた。それに応えて、露西亜の中国研究家である露西亜科学アカデミー「遠東研究所」研究員である「Ke爾図諾娃」女士は長年「尼克爾斯基」の資料蒐集に尽力してきたが、遂に昨年、「俄羅斯聯邦安全局中央档案館」で「尼克爾斯基」の経歴についての資料を発見した。それによると、「尼克爾斯基」は1889年生まれで、本名は「弗拉基米爾・阿勃拉莫維奇・涅伊曼」。1921年ボルシェヴィキに入党し、第3インターナショナル「遠東書記処」の代表として上海に駐在した。その後、1930年代の「大粛清」の波に巻き込まれ、1938年に「間諜罪」容疑で逮捕され、程なくハバロフスクで銃殺された。1956年に、「蘇聯最高法院軍事委員会」によって、「平反昭雪」、すなわち名誉回復された。
昨年、露西亜の「遠東国立大学」の「歴史学教授」だった「阿列克賽・布亜科夫」氏が上海の「“一大”会址紀念館」を訪れたときに、「尼克爾斯基」の写真がないのにショックを受け、資料蒐集を思い立ち、「〓*1木斯克州档案館」に問い合わせて、「尼克爾斯基」の写真及びその他の個人資料を入手した。「阿列克賽・布亜科夫」氏は今年の6月29日に「“一大”会址紀念館」を再度訪れ、「尼克爾斯基」の写真を寄贈した。また、2001年に蒙古国の「人民党」幹部が「“一大”会址紀念館」を訪れたときに、やはり「空缺」に気づき、帰国後、コミンテルン研究家の「朝論・達西達」氏に調査を依頼した。「朝論・達西達」氏は2006年に3度に亙って露西亜に赴き、資料を収集したが、写真は発見できず、最終的にはやはり「〓木斯克州档案館」で写真を見つけ、今月、上海に来て、写真を「“一大”会址紀念館」に寄贈した。
「尼克爾斯基」の写真は9月26日から展示されている。

*1:e4. 咢+おおざと。GB2285.