酒鬼薔薇の妹?

承前*1

藤井誠二「ある「人を殺してみたかった」事件の精神鑑定書を再読して考えたこと」http://bylines.news.yahoo.co.jp/fujiiseiji/20150218-00043068/


老女を殺した名古屋大学の女子学生だが、彼女、Twitterで「一九九七年に神戸で起きた児童連続殺傷事件の加害者(当時十四歳)への憧れを示す書き込みも多い」のね。今19歳ということは、酒鬼薔薇の事件が明るみに出たときは2歳かそこらだったわけだ。酒鬼薔薇は殺しをするために「バモイドオキ」という神を発明し、その神の命令というかたちで殺人を実行した。それに対して、彼女は〈神〉なしで人を殺した。しかし、或る意味では、彼女は敬虔な(敬虔すぎる)〈一神教〉の信者なのかも知れない*2
「愛知県豊川市主婦殺人事件」*3の精神鑑定を小田晋がやっているのね。
また、この事件以後、若者の事件の「精神鑑定」では「先天的な発達障害」が定番化した;


(前略)家裁が採用したのは弁護側がおこなった精神鑑定で、大まかに内容を説明すると、少年は先天的な発達障害の一種で、それゆえに「人の死」へのこだわりがとれず、一般的に他者が感じる「痛み」に対して共感力が著しく欠落しているという特性や家族環境も手伝い、「経験殺人」を制御することができなくなってしまったというものだ。発達障害は事件の直接的原因ではないが、そのパーソナリティが何らか影響しているのでないかと指摘をしたのだ。家裁は加害少年を医療少年院へ送致した。

その事件以降、同類の十代や二十代の若者が引き起こす事件の精神鑑定にはこの先天的な発達障害や行為障害が必ずといっていいほど持ち出されるようになった。刑法三九条の「心神耗弱」や「心神喪失」と違って、減刑や寛刑の理由にはならないし、するべきではないが、「障害」を持ち出して説明されることにより、彼らの理解しがたい動機を「社会」と切り離すような印象を私たちはいつしか抱くようになってしまっていないだろうか。「人を殺してみたい」という言い方はたしかに病理的だし、サイコパスであると決め付けてしまうのはたやすい。しかし、あえて彼らの言葉を病理の範疇に入れず真正面から受け止め、彼らの悪びれない姿を、心や感情を何を動かすことができない様を、私たちの生きるコミュニケーション環境に引きつけて考えていくべきではないかと思うのだ。そもそも、何らかの発達障害であると精神鑑定をされても、それは殺人を犯したことの説明にはならないし、たとえば豊川事件は専門家の中でも意見が分かれ、「発達障害」の専門家が発達障害とした精神鑑定を否定することも起きた。議論を深めるためには少年法等でプライバシーを理由に、事件の詳細を隠蔽するべきではないだろう。

また、現在「発達障害」ブームと謂うべきものが起きているという。これも知らなかった;

いま子どもたちをめぐる精神医学や心理学の世界は「発達障害」ブームともいえる。私が『人を殺してみたかった』を書いていたときには小学生の数人に一人は発達障害だという説を唱える専門家が注目されだしたし、「学級崩壊」などクラスに数人はいる多動性の発達障害の子どもたちが関係しているという説も普遍的になりだした。最近では大学に入学してくる生徒の過半数が診断的には「広汎性発達障害」の範疇に入るので、有名大学では対応に四苦八苦しているという話も聞こえてくる。こうなってくると、すでに「精神病理」の範疇を超えた「社会病理」だとも言えるが、むしろ「社会病理」の中に私たちの姿を映し出してみせたほうがいいと思うのだ。