「出逢ってしまった人」その他

以前「私が「尾崎豊」に出逢わなかった」と書き、さらに「尾崎豊と出逢ってしまった人は幸いだと思うし、その幸福を、また世間に流通する紋切り型を脱した「尾崎豊」を是非語り続けていただきたい」とも書いた*1。さて、


湯浅兼輔「My Eternal Heart―尾崎豊、その軌跡―」(一橋大学社会学部学士論文)http://members.jcom.home.ne.jp/tekato/05yuasa.htm


というテクストは「出逢ってしまった人」によるテクストだといえるだろう。
このテクストは、例の「卒論代行」問題*2を巡って、http://d.hatena.ne.jp/arg/20070826/1188062416を通して知った、新納浩幸という方の


こういうこと*3が問題になるのは、結局、
大学で教えていることの内容自体(勉学の行為ではなく内容)が、
実際には無意味だということの証拠だと思う。

この問題、いろいろ話題になっている関係で、以下の論文が示されていた。

http://members.jcom.home.ne.jp/tekato/05yuasa.htm

なるほど。文系の論文ってこんな感じなのか。
http://dp04022987.lolipop.jp/blog/2007/08/post_73.html

というエントリーで知った。これは短いエントリーではあるが、よくわからないところが多い。「以下の論文が示されていた」として、この湯浅という人の「尾崎豊」をテーマにした「学士論文」のURLがマークされているのだが、「示されていた」場所が明示されていない。ともかく、この湯浅という人の文章はかなり参照されているということなのだろうか。何処で? また、「この問題」は「卒論代行」問題そのものというより「大学で教えていることの内容自体(勉学の行為ではなく内容)が、実際には無意味だということ」を指すのだろう。とすると、「尾崎豊」をネタに卒論を書く人が出てくるということが「大学で教えていることの内容自体(勉学の行為ではなく内容)が、実際には無意味だということ」の結果だといいたいのだろうか。
勿論、この「論文」は評価できるテクストではないだろう。但し、それは「尾崎豊」をネタにしているからではない。私見では、テクスト(ここでは尾崎豊の歌詞)を徹底的に読むということをせずに、一般的なクリシェや作者(尾崎)のバイオグラフィ(についての言説)に逃げ込んでしまっている。音楽論としては、音楽史的な、或いはインターテクスチュアルな連鎖が全く考慮されていないし、何よりも尾崎の〈音〉それ自体が殆ど考慮されていない。総じていうと、この著者が「尾崎豊と出逢ってしま」い、非常に思い入れがあるということは伝わってくるのだが、その実、「尾崎豊」を実際に聴いていなくても書けてしまうようなテクストとなっている。故に、テクスト論としても音楽論としても、或いは社会論としても評価できるものではないということになる。
ところで、湯浅論文に出てくるfoget-me-notはrが抜けており、正しくはforget-me-notだろう。ところで、(丁度1980年代に花鳥風月的転回をしていた頃の)今井俊満画伯に「勿忘草」という美しいタブローがあったが、その英文表記は”Don’t-Forget-Me Flower”となっていたように記憶するが、この言い方は手許の辞書にない。