尾崎・オウム・グノーシス(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20111004/1317691812で、橋本努『自由に生きるとはどういうことか』における尾崎豊論に言及したのだが、さらにオウム真理教による尾崎豊の利用について述べられた箇所をメモしておく;


当時のオウム真理教はどうやら、尾崎豊に共感する若者たちを、積極的に取りこもうとしていたようである。九四年に作られたオウム真理教のプロモーション・ビデオ『戦いか破滅か』は、別名「尾崎ビデオ」とも呼ばれている(ビデオの内容はhttp://rerundata.hypermart.net/aum7/2/oz1/oz100.htmlを参照)。その内容を一言でいうと、「尾崎豊アメリカによって殺された。だからアメリカと戦うために、オウム真理教に入信しよう」、と呼びかけるものだった。
(略)
尾崎は学校を出て、反抗すべき対象を失ったとマスコミは言い立てたが、それは嘘である。本当の敵は、アメリカである。原爆、多国籍企業による支配、エイズ湾岸戦争、などなどの「悪」をなしてきたアメリカは、実は「影の世界政府」の支配下にあり、現在、日本を滅ぼそうと企てている。彼らは罠をしかけ、私たちが〈本当の自分〉であることを圧殺しようとしている。尾崎豊は、その計画に都合が悪いから暗殺された。しかし私たちは、アフガニスタンベトナムキューバの人々と同様に、アメリカに対して抵抗運動をくりひろげなければならない。そしてその戦いを率いる救世主は、麻原彰晃である、というのだ。(pp.176-177)
橋本氏はオウム真理教のロジックに、「反グローバリズム運動」や「エコロジー運動」と共通するものを見出している――「〈本当の自分〉を探してこれを実現するためには、大きな敵=社会と戦わなければならない」(p.178)――のだが、まあこういう「思考パターン」を展開する人は今でも多いよね。「尾崎」を小沢だとか植草に、「暗殺」を冤罪に置き換えてごらん。
さて橋本氏はさらに「グノーシス」という概念を持ち出している。曰く、

オウムの「危なさ」は、「グノーシス(gnosis)」という用語を用いて説明することができるだろう。「グノーシス」とは、「認識」を意味するギリシア語であり、(1)*1救済をもたらす神の認識、あるいは、(2)人間が自らを神であると認識することによって救済されると説く思想である。
グノーシスは、歴史的には、古代キリスト教の異端思想として発達してきた。しかし今日では、この言葉はさまざまな意味で用いられている。たとえば、政治学者のエリック・ヴォーゲリン*2は、「グノーシス」の概念を次のように一般化している。すなわち、グノーシスを求める者は、自分の置かれている状況に不満を抱き、この世界が本質的に過って組織されているとみなす。そしてこの世界の災いから、人々は「救済」されることが可能であると考える。ただしその救済は、歴史のプロセスのなかで、人間の行為によって成し遂げられなければならず、そのためには、預言者による処方箋が必要となる。これがヴォーゲリンの「グノーシス」理解である。そしてヴォーゲリンは、二〇世紀においては官僚制というものが、「生の意味」を抑圧し、その反動としてグノーシスへの願望が高まってきた、と論じている。
(略)
おそらく二〇世紀の日本において、グノーシスに対する願望が高まった時期は、二度ほどあった。一つには、全体主義国家たる大日本帝国が、第二次世界大戦において、沖縄決戦に至るまでの殲滅戦をくり広げた時期であり、当時の国家は、人々に対して、「玉砕による魂の救済」を煽動した。も一つには、九〇年代において、オウム真理教の教祖麻原彰晃が、ハルマゲドン(略)による世界の滅亡を予言した時期であり、信者たちの一部は、「信仰による魂の救済」を求めて「サリン事件」を引き起こした。(pp.180-181)
取り敢えず、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110901/1314899481http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20111002/1317520950に結びつけておく。また、「グノーシス主義」と現代のスピリチュアリティ思想・運動との関係については、島薗進先生の『スピリチュアリティの興隆』(第3部「グノーシス主義と新霊性文化」)*3を取り敢えず参照のこと。
スピリチュアリティの興隆―新霊性文化とその周辺

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