「私自身を見てください」?

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070707/p1


「しない させない 就職差別   働くのは私! 私自身を見てください」という大阪府の「就職差別撤廃月間」の標語*1を巡るArisanの違和感。曰く、「ここでの「私自身」には、その人の現実の生や、実際の差別という事柄に関与するような「属性」が付着していないということ、この「私自身」とは、具体的な「個人」とは無縁なたんなる抽象物にすぎない、という感じがするのだ」。さらに、


おもうにそれは、後半の「働くのは私! 私自身を見てください」という言葉が、前半の「しない させない 就職差別 」という部分を掘り下げない、そのことを正面切って問題にしないための方便、すり替えであることが、薄々感じられるからである。

よくない現実を明るみに出さないために、そういう現実のあり方を変えないままにしておくことを隠された目的として持ち出され、ほめたたえられることになる価値としての「私自身」。その言葉の空虚さ。

この標語の気持ち悪さは、たぶんこの点に根本的な理由があるのだ。

そして、結論としては、「この標語における「私自身」は、就職差別という「存在の否定」に結びつくような事柄の具体性への直面を避けるために持ち出された、薄っぺらな概念であり、それゆえに、採用の基準となる「能力」のなかに「存在」の価値や厚みが押し込められ、混同された表象、たんなる「労働力」に還元された人間(私)の姿を示すものだといえる」ということになるのだろうか。
私はこの標語に対しては、Arisanとは別の意味で違和感を持った。「差別」のターゲットとなるような属性に対置された「私自身」。それはたしかに「たんなる「労働力」に還元された人間(私)の姿」かも知れない。それよりも、労働において「私自身」が露呈するものなのかよというか露呈していいものなのかよと思う。「労働力」の商品化が悪いとは言わない。寧ろ、商品化されない労働というのは奴隷労働或いは強制労働じゃないかとさえ思う。だから、こういう標語というのは、所謂「差別」のターゲットとなるような属性は「就職」或いは労働という文脈においてはレリヴァントではないということを示せばいいのだ。所詮、労働というのは私の「労働力」を販売することにほかならないのだから。つまり、「私自身」が〈裸の生〉として露呈する余地があってはならず、「私自身」は様々な属性によって保護されなければならない。さて、1960年代のカウンターカルチャーにおける〈疎外された労働〉批判が一転して労働への全人格・全存在のコミットメントを強制するイデオロギーに転じてしまうことは、斎藤貴男カルト資本主義』でも述べられていたが、この標語でも「たんなる「労働力」に還元された」ものにすぎない「私自身」に何やら〈本来性〉めいたものが賦与されてしまうのではないかというのが私の違和感である。
カルト資本主義 (文春文庫)

カルト資本主義 (文春文庫)

この標語は現代社会が労働を人格なり「存在」にとって本質的なものとするヘーゲルマルクス主義の延長にあることを図らずも明るみに出したともいえる。
因みに、議論の前提として、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070320/1174417738とかhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070414/1176566437とかhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070515/1179237549とかも参照していただければ幸甚である。