民族/エスニシティ――関根政美

多文化主義社会の到来 (朝日選書)

多文化主義社会の到来 (朝日選書)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070708/1183872737でも引用したが、関根政美『多文化主義社会の到来』からの抜き書き。
「民族」と「エスニシティ」を巡って*1。なお、著者がここでいう「民族」は専らnationの訳語である。勿論、著者のこうした言葉遣いが妥当なものかどうかは議論の余地がある(私は決して妥当だとは思わない)。
曰く、


民族そのものは、国民国家形成が盛んになった時代に民族自決概念(一つの民族集団は、一つの国民国家をもつことができるという国民国家形成の正当化原理で、第一次世界大戦後国際的に認知されたものだが、民族は国民国家をもつべきだというナショナリズムを支えるものでもある)とともに成立したに過ぎない。それは、単なる文化、言語、生活習慣、祖先同一意識をもつ文化集団という普遍的な存在を意味するのではなく、近代世界の国民国家原理に深くかかわるきわめて政治的な概念であり、いいかえれば、むしろ国民国家形成を企図する人口集団を意味する(p.26)。
エスニシティ」について。まず、

エスニック集団という言葉が日本でも頻繁に使われだして一〇年以上になるが、未だに耳慣れない人も多い。一〇年ほど前に大学院の入試に「エスニック」という単語を含む英文読解問題を出したところ、ほとんどはエシック(ethic 倫理)と間違えて頓珍漢な解答をしていた。残りのものは辞書に見つからなかったのだろうか訳していなかった(p.27)。
この本の刊行が2000年だから、1990年前後か。

米国では、同化・融合政策にもかかわらず、英国系移民とは異なる文化・言語的伝統を維持してきた非英語系移民集団を指すものとして、一九六〇年代後半頃から一般的に使われ普及しはじめた。非英語系移住者が故国よりもってきた伝統的文化・言語や生活習慣が、同化圧力(米国化)のもとで希薄化し、場合によっては象徴的なものに過ぎなくなっていたにもかかわらず、二〇世紀半ばになっても、なお民族的独自性を主張する傾向のあることが判明した。その結果、故国の人々(民族)に比して、米国化されて伝統文化や生活様式が随分異なってしまっていながらも民族的独自性を主張する移民集団のことを、エスニック集団と命名したのである(ibid.)。
また、「エスニック集団」と「民族」については、

民族とエスニック集団はともに文化集団であるが、違いを端的にいうとすれば、民族は、国民国家の主流国民を指し、エスニック集団は国民国家内に取り込まれた文化的少数集団であるといえる。民族は国民国家の主流人口集団だから民族的伝統を維持しやすい。その結果、伝統的な言語、生活様式とそれを規定する価値・規範体系、文化、宗教などを、その社会手段が先祖伝来の地域に住みながら堅持していると考えられやすい。他方、エスニック集団は、移民・難民、強制移住者など伝統的居住地域を去り、新天地での生活を余儀なくされた人々を指すことが多く、伝統文化、言語、生活様式は変容している(たとえば、日本では在日韓国・朝鮮人アイヌの人々など)。場合によっては、伝統文化・言語を完全に失っている場合もある。しかしそれでも彼らは祖先伝来の地(出身国)に住む社会集団=民族と自らを同一視しようとする。あるいは、同一視できない場合でも独自な文化集団であることを主張しようとするマイノリティ社会集団であるといえよう(pp.27-28)。
という。
管見によれば、米国で人種(race)に代わってエスニシティという概念が拡がった背景としては、ヒスパニック系の擡頭がある。この人たちは人種としては、白人であったり黒人であったりネイティヴ・アメリカンであったりするのだが、ヒスパニックというアイデンティティ(レイベル)は、中南米という出身地や西班牙語という言語によって支えられている。著者のエスニシティ概念は「国民国家」に引き摺られすぎている感じがする。寧ろエスニシティとは「国民国家」を度外視した時に見出せる〈民族〉概念であるといっていいだろう。その意味で、エスニシティは「国民国家」を超える。また、エスニック文化の維持或いは再活性化或いは再発明は、グローバル化と情報化の進展によって以前よりも容易になっている側面があることは見逃せないだろう。例えば、「故国」の新聞、書物、映像作品、音楽、料理などを享受すること。また、中国系米国人が中国に留学したり、在日韓国人が韓国に留学したりして、自文化を再習得することも、グローバル化の一端である国際交通の発展抜きには考えられない。また、エスニシティ概念を受け入れた「国民国家」は多かれ少なかれ著者いうところの「多文化主義」(p.41ff.)へとシフトせざるをえないだろう。
再び「国民国家」について;

国民国家制度の確立が人種・民族・エスニック問題の究極的原因だといっても過言ではない。また、立派な国民国家に属す人間ならば、異国でも尊重され差別される可能性は少ない。でなければ差別されるだろう。人間の評価はその人間が属す国民国家によって決められる。先住民のように国民国家をもたない人々は悲惨である。マイノリティは自由・平等を達成するため、つまり、民族自決を主張するために、自分の民族性を証明しなければならないから、自分の民族性を捨てることは考えられない。またマジョリティ主流国民も、自分の文化・言語の優越性の維持に腐心せざるをえない。この意味では、結局はすべての人が国民国家に縛り付けられているのである。すべての人々にとり、国民国家は「酷民国家」であり、国民国家を超えて自由に文化とアイデンティティを享受することは、スポーツや芸術などで一芸に秀でた超人は別として、私たち凡人には悲しいかな困難だ(p.38)。
ところで、「オーストラリア人はいつも日本で米国人に間違えられることに腹を立てている」(p.23)というが。

*1:著者は同時に「人種(race)」概念についても議論しているが、ここでは省略する。