谷間の世代か

Mixiに「日記キーワードランキング」*1というのがあって、昨日か一昨日か「尾崎豊」が上位にランキングされていて、あれって思ったのだった。命日だったんだ。それも15回忌。
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070425/p1を通じて、『朝日』の「没後15年尾崎はどこへ 消えた反抗心」*2という記事を知った。それは最近の若い衆が「尾崎豊」にあまり共感しなくなったというもの。香山リカのコメントをフィーチャーした部分を引用してみると、


 「学生の反応は年を追うごとに悪くなっている」と精神科医香山リカさん(46)も言う。00年ごろから大学の授業で「卒業」などを聴かせている。当初から「この怒りがどこから来ているか分からない」という意見はあったが、最近はきっぱりと否定的な感想が目立つという。

 「周りに迷惑をかけるのは間違い」「大人だって子供のことを思っているのに反発するのはおかしい」。体制や大人に反抗するのはいかがなものかという声だ。香山さんは「これまで成長のプロセスにおける仮想敵だったはずの親や先生の善意を屈託なく信じている」と首をかしげる

 どんな価値観の変化があるのか。香山さんは「反発したり、知りすぎたりすると損をする。損得勘定が判断の基準になっている」と分析する。他者や社会との関係で揺れ、傷つく姿を歌ってきた尾崎の歌とは対照的な考え方。彼の実人生に対しては、こんな感想さえあった。「容姿にも才能にも恵まれているのに変に反抗して、早く死んだのはバカだ」

 学校や親への反抗、自分という存在についての不安。尾崎が歌ってきたのは、若者にとって普遍と思われるテーマだったはずなのに、嫌悪にも似た反感が生じている。

「反抗」というのがリアリティを失っているのだという。以前に書いたかも知れないが、〈若者の保守化〉というような言説は少なくとも1970年代から流通し続けていたのであり、こういうのを額面通りに信じてはいけないのかも知れない。また、「学校や親への反抗」とか「自分という存在についての不安」というのを「若者」というようなライフ・ステージに結びつけるのは如何なものか。それは近代の流儀だということになるのだが、中年だって老人だって「反抗」する筈だし、「自分という存在についての不安」に至ってはどの年齢層にとっても普遍的な課題の筈だ。また、「反抗」が「反抗」でしかなく、しかも「若者」というライフ・ステージに固定されてしまう限り、それは結局、次のステージに回収されてしまう。いい気になって「反抗」していたら、いつまで青臭いことを言っているんだとか早く大人になれという声がどこからともなく聞こえてくるということになる。この記事に出てくる「若者」の声に関してはたしかに共感できない。しかし、そういう「若者」の「反抗」の欠如に苛立っている(何歳かは知らないけれど、大人であることは間違いない)記者だって、「若者」が本気で「反抗」したりしたら、〈荒れる若者!〉みたいなノリの記事を書くかも知れないし、〈いつまで青臭いことを言っているんだ〉、〈早く大人になれ〉攻撃だって熾烈になるだろう。何よりも、苛立っているなら自分で「反抗」しろよ、自分で「窓ガラス」を割れよということだ。「夜になっても遊びつづけろ」*3
ところで、尾崎豊に関しては、私などは〈谷間の世代〉という感じがする。自分と同世代では尾崎豊に対して、ポジティヴにせよネガティヴにせよ、あまり関心を持っている人というのは出会ったことがないのだ。1980年代の後半だったと思うが、恩師のH先生が突然尾崎豊ってどう思う?と訊ねたことがあった。私がどう答えたのかは自分でも記憶がないのだが、H先生は尾崎っていうのが歌っている内容は俺たち全共闘世代にとっては既に決着がついているようなものなんだと言った。その時(覚醒剤で逮捕される前だったと思う)、私は勿論尾崎豊の名前は知っていたが、ブルース・スプリングスティーンのフォロワーのひとりだというくらいの認識しかなかった*4。その後、尾崎は斎藤由貴と結婚し(不倫関係だったんだ、ああ勘違い!)、そして死を迎えるわけだが、その当時感じたのは、H先生の言葉に反して、尾崎豊に関心を寄せているのは、その頃ティーンエイジャーの子どもを持っていた団塊の世代前後の人たちとその子どもたちだったということだ。尾崎を聴くことで子どもたちと共有するものができましたというような声が多かったような気がした。ティーンエイジャーでもその親の世代でもなかった私たちはすっぽり抜けてしまっていたわけだ。また、1990年代に入ってからの〈尾崎ブーム〉は1980年代的なもの(とステレオタイプ的にされたもの)に対するバックラッシュの側面もあったということに気づく。1980年代的なもの、それは浮ついた相対主義山下悦子の『尾崎豊の魂―輝きと苦悩の軌跡』
尾崎豊の魂―輝きと苦悩の軌跡 (PHP文庫)

尾崎豊の魂―輝きと苦悩の軌跡 (PHP文庫)

は1995年に出たが、まさにそのような趣の本だった。そこで音楽における1980年代的なものの代表とされているのは桑田佳祐だった。そのような前提の下で、〈浪漫主義者〉尾崎豊が仕立てられてゆく。オウム真理教も1980年代的なものに対するバックラッシュの一形態という側面があるだろうが、オウムは自爆し、それと同時に1980年代的な〈浮ついた相対主義〉も吊し上げられ、小林よしのりとかがヒーローになる時代がやってくるというわけだ。上の記事の香山リカだって、1980年代は『フールズ・メイト』な人だったわけだから、尾崎豊には無関心だったに違いないと思うのだが、どうなのだろうか。
時の流れといえば、『読売』の記事で大貫妙子さんの新譜が出たことを知ったのだが*5、その記事に添えられた写真を見て、時間というのは残酷に過ぎゆくものなのだなとつくづく思ってしまったのだ。